うちの課に入ったパソコンを使うヌーレック

1995-02-27

 元気ですか。

 さて何について書こうかなと思い、ふと職場の窓から外を見ると、子供達がゴミ捨て場のゴミを広げてゴミあさりをしていました。職場から出たゴミですから、書き損じの紙などが主です。その紙の中の裏が白い物を集めているようです。(来た当時、書類は皆タイプライターでしたが、最近はパソコンとコピーです。パソコンとコピーが入ってからやけにゴミが増えたように思えます)

 私の住んでいるセンサバイでは、建物の脇に木で作った枠があり、ここに各自ゴミを捨てますが、週に2・3回ゴミ集めのトラックがやって来ます。ここのゴミ捨て場の人気は高く、子供や浮浪者が良くゴミをあさっています。中でも一番人気の高いのは、ビールの空き缶です。

 ビールは箱でまとめ買いして常に冷蔵庫で冷やしてあり、飲んだ人は飲んだ分のお金を台所にある箱に入れるようにしていますから、空き缶は結構たまります。空き缶を捨てに行く時、子供達に見つかると大変です。あっという間に周りに子供の輪ができ、手に下げた空き缶の入った袋を奪うように持っていきます。どうやらビールのアルミ缶は対岸のタイで売れるらしく、専門に集めて回る人がいるらしいのです。

 浮浪者にとって一番人気があるのは、私が捨てるゴミです。私は良く煙草を吸いますが、根元まで吸うことはなく、せいぜい2cmほど吸って消してしまう癖があります。もったいないとも思うのですが、癖ですから仕方ありませんし、煙草代についてだけは、なぜかもったいないという気はしません。浮浪者の叔父さんは、この煙草を拾いに来るのです。

 少し嫌な気もしますが、こちらとしては一度捨てたものですから、別に持っていってもらってもかまいません。でも、捨てたゴミの袋を破り、吸殻だけ拾って、他のゴミを散らかしたまま帰ってしまうのには困ります。ゴミ集めのトラックがすぐ来る時なら良いのですが、しばらく来なかったりすると、ホテルの前に自分の捨てたゴミが散乱している、なんて光景にお目に掛かることになってしまうのです。別に人に見られて困るような物を捨てているわけではないのですが、これには閉口してしまいます。

 ちょっと変わった物を捨てた時なども大変です。蚊取り線香の缶をまとめて捨てた時のなど、すぐ子供達の奪い合いになり、逆さにして太鼓にしたりしていました。一緒に捨てた鼻緒の切れた草履も、遊びの道具として使われていました。子供達や浮浪者の叔父さんにとって、センサバイのゴミ捨て場は、ちょっとした穴場になっているようです。プライバシーなんてことを考えると嫌な気もしますが、これも一種のリサイクルと思うことにしています。

 さて、こんなことを書いているとカンタボンがやって来て、「本当に4月に帰るのか。もっと居られないのか」などと言い始めました。スパサイもやって来て、二人でしきりに「もっと居るためにはどうすれば良いのか」とか、「また来るためにはどうしたら良いのか」などと聞いてきます。

 私が、「もう今から任期延長するのは無理だし、また協力隊員として来るのは、多分無理だ」と言うと、「じゃあ専門家として来れば良いじゃないか。申請書を書いてJICAに送ろう」という話になってしまいました。

 現在私の職場からは、獣医、畜産、養殖(魚)それぞれ一人ずつ協力隊員の派遣要請が出ています。そのうち畜産の隊員が、私と入れ替わりでやって来ることは決まっていますが、後は未定です。各県からの要請は、ラオス政府の公安委員会というところを通してJOCVに届くのですが、ここを通るのが結構厳しいのです。

 要請を出してはいますので、専門家より協力隊員が派遣される方が先でしょうし、日本の専門家はまず公務員の中から捜し、それから民間企業、そこでも適任者がいなければJICAという順らしいのです。私が専門家として再びここに来る確率は、かなり低いというわけです。

 それより何より、専門家になるなら専門家試験というものがあり、それに合格した人が優先です。

 そういった事を二人に説明すると、「可能性はゼロなのか」と聞くので、「まったくゼロというわけではない」と言うと、「じゃあ、やっぱり申請書を書く」というのです。

 私としてもそこまで言ってくれる気持ちは嬉しいので、「じゃあ書くだけは書いてくれ」と言わざるをえませんでした。まったくこんな風に言ってくれるなんてありがたいことです。でも、人間惜しまれるうちが花。これ以上いてボロがでないうちに帰国することになり、ちょうど良かったのではないかとも思ってしまいました。

 この2年間の仕事量といったら、日本に居た時には比べ物にならないくらい少ないものかもしれませんが、一つ一つの仕事に対する充実感というものは大変大きなものだったと思います。

 日本でならできて当たり前のことをするだけで、こちらでは、すごい事ができる奴ということになってしまうことも多々あり、なんだか得したような反面、ズルをしているような2年間だった気もします。

 診療について言うと、自分の持っている技術の半分くらいのもので事足りてしまうのですから(というより、それ以上活用することができない。活用したくても道具も薬もない)、やはりこの2年で技術・知識のレベルは、かなり低下してしまったのではないかと思います。そう考えるとこの2年の収支決算は、プラスマイナスゼロと言えるかもしれません。

 今日、久米川のお母さんから手紙が来ました。先月、お父さんの百箇日も無事終わり、7月9日には三女のMちゃんが結婚することになったそうです。Mちゃんに始めてあった時は、まだ高校生のアニメ少女だったのに、もう結婚だなんて驚きです。

 そういえば以前、中学の時同級生だった人から手紙が来て、『息子も、今度高校生です』なんて書いてありましたっけ。いつまでも若いような気になってふらふらしていましたけど、私もいつのまにか40近くになっていたのですね。でもまあ、こういう事についても損得色々あり、収支決算はプラスマイナスゼロなのかもしれません…。

 それでは今回はこのへんで。

 それではまた。お元気で。

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