ナムセーノイの人達

1994-05-18

 元気ですか。確か前の手紙は、大使夫人と麻雀をやるかどうかというところで終わったのだと思います。結局やることになりましたが、まったく、あの日の麻雀は最低でした。

 S君、チャンディー、新隊員のK君と4人で行ったのですが、ホテルのロビーで大使夫人を待っていると、建設会社の人や、コンサルタント会社の人もやって来て、2卓でやることになったのです。

 「おっちゃん達とやるのは嫌だ」とK君が言うので(こんなことを本人達の目の前で言ってしまうのですから、困った奴です)、大使夫人、建設会社の責任者、コンサルタント会社の人と私で1卓囲むことになりました。ところが、これが完全な接待麻雀だったのです。明らかに上がれるような牌でも、大使夫人が出すとあがりませんし、夫人があがろうものなら「奥様、お強いですね」、「イヤー、お強いお強い」と、大変な騒ぎなのです。あまりにあからさまなので、大使夫人も私と目が合うと、苦笑いしていました。

 でも、彼らにとっては、これも仕事の一部。サラリーマンというのは大変なものです。こちらは逆の持たないものの強み、大使夫人に何の義理もありませんから、適当に付き合い、負けないようにやりました。

 終わった後夫人は、「昨日のほうが面白かったね」と私に言っていました。前日のメンバーは、私とS君、建設会社の若手の人でしたから、誰もわざと手を抜くことはなく、面白かったのでしょう。ヴィエンチャンにいると企業の人も多く、お追従に囲まれた生活なのかもしれないな、などと想像してしまいました。

 接待麻雀というのは、話には聞いていましたが実際に接するのは始めてでした。つくづく、私は会社員にはなれないな、と思ってしまいました。

 翌日早朝のバスで、S君と2人パクセーに向かいました。クリストファーのお母さんが、スウェーデンから来た事を聞いたからです。

 以前の手紙にも書いたとは思いますが、私がラオスに来てすぐ、ヴィエンチャンであった語学研修で、クリストファーというスウェーデン人と一緒のクラスでした。彼も酒好きだったので、良く一緒に飲みに行き、へタクソなラオ語で話し合いました。彼はシダーというスウェーデンのボランティア団体の一員で、語学研修の終了後は、村落開発普及員として、チャンパサック県の山奥の村に住んでいたのです。

 その彼は今年1月、マラリアで死にました。年末の休暇旅行でフィリピンに行った時に発病し、今年の初めに亡くなったのです。

 金曜日の夕方の無線で、クリストファーのお母さんがラオスに来ており、ヴィエンチャンのTが付き添い、パクセーに向かったということを知ったのです。私とS君はどうしても彼のお母さんに合わなければいけないと思い、急にパクセー行きを決めました。パクセーでお母さんに会って、同期のTの所に一泊し、次の日には帰って来るつもりでしたから、事務所にも職場にも、何も言わずに出かけました。

 ところがパクセーに着いてみると、お母さんとTとTは、パクセーから50kmほど山奥のパクソンに行った後でした。6時間のバスでの旅の後でしたから疲れており、もう会わずに帰ろうとも思いました。でも、昼食をとったらいくらか元気が出て、トラックを改造したバスで約2時間、パクソンに向かいました。

 この時点では、次の日の早朝パクセーに戻り、日曜の夕方までにはサバナケットに戻るつもりでした。ところがその夜、パクソンのシダーの事務所に泊り、たどたどしい英語でお母さんとクリストファーの思い出を語るうちに、次の日クリストファーがいた村に行くから、一緒に行かないかという話になったのです。少し迷いましたが、結局行くことにしました。

 シダーの所長、アメリカ人のウィリアムスさんや、マレーシア人のバランさん、ラオ人の職員も含めて総勢15人。3台の車に分乗し、パクソンよりさらに70km奥地の村に向かいました。(シダーはスウェーデンのボランティア団体ですが、参加する人の国籍は関係ないようです)

 文字どおり道無き道を行くという感じで、途中車で川を渡ったりもしました。実は翌日パクセーまで送ってくれるという話だったのですが、この道を見ているうちに、もうそれさえも半分あきらめかけていました。

 ようやくたどり着いた村は、ナムセーノイという人口105人の小さな村。もちろん、電気も水道もありません。クリストファーは、この村を拠点に、近くの12の村を巡回していたそうです。

 村の人たちの歓迎ぶりは大変なもので、クリストファーのお母さんは、それこそ本当に涙の乾く間も無い状態でした。

 その村に一泊し、翌日はクリストファーが通っていたもう一つの村に行き、そこでも大歓迎を受けました。パクセーに帰り着いたのは、月曜日の夕方でした。その日は、お母さんと、ウィリアムスさんと夕食をともにしました。

 ところが私達は、日本人としてクリストファーに対して申し訳ない話を、村に行った時に耳にしていたのです。実は日本の援助で、韓国の会社がダムを造ることが決まり、クリストファーが回っていた村は水没してしまうというのです。事前の調査はかなりおざなりで、村人に対する説明はあまりなく、村人達は日本人に対し、あまり良い感情を持っていなかったらしいのです。

 もちろんウィリアムさんもクリストファーも知っており、クリストファーはずいぶん日本のことを弁護してくれていたようです。お母さんには何も話さず、気持ち良く帰ってもらうつもりでしたが、結局包み隠さず話しました。

 お母さんは、「クリストファーの手紙に、ラオスで本当に良い日本人の友人達とめぐり会ったと書いてありました。もし、日本のことを悪く言う人がいたら、私はあなた達のことを話します。ダムの件については、私達にできることは少ないかもしれない。でも、日本に帰ったら、少しでも多くの人に、この事を伝えてください。本当にあなた達に会えて良かった。いつでもスウェーデンに来てください。私の家は、あなた達の家です」と言ってくれました。この一言を聞いただけで、今回パクセーに来て良かったと思ってしまいました。

 翌日バスでサバナケットに戻り、2日間の無断欠席の後、職場に行ったのですが、パクセーでの出来事を話すと職場の人達も納得し、なかには涙ぐむ人もいました。なんて良い人達ばかりなのでしょうか。

 こちらは雨期に入ったらしく、ひとときより涼しい日が続いています。パクセーからの帰り道も雨でひどい所もありました。雨期の間は、またパクセーに行くことはないでしょう。

 それではまた、お元気で。 

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