バーシーの儀式

1994-03-31

 元気ですか。27日に農場のMさんは2年間の任期を終え、帰国するためにヴィエンチャンに行ってしまいました。Mさんの事については、以前の手紙に書いたことがあると思いますが、サバナケット第1号隊員で、稲作で来たのに水がなく、稲が立ち枯れになってしまい、仕方なくかぼちゃを育てていた人です。

 そのかぼちゃは見事に出来上がり、第1回目の収穫を終え、この地を去ったのです。カボチャは全部で10万円くらいになるそうですから、ラオ人たちは大喜びでしょう。

 あのカボチャは、Mさん一人で育てたようなものです。最初に植えるときは農場の人たちも手伝ったそうですが、その後毎日の水やりは、ほとんどMさん1人でやっていたようです。暑い中一人で働いていても誰も手伝いに来ず、たまに来たなと思ったら「おかずにするから、ちょっとちょうだい」と言って葉っぱを何枚か持って行っただけだったと、Mさんが愚痴っていました。

 それでも最後に自分の育てたカボチャの収穫を見届け、周りの人たちの喜ぶ顔も見られてからの帰国したのですから、良かったと思います。

 先週の週末は、連日Mさん送別のためのバーシーでした。バーシーと言うのは、集まった人が1人1人、相手の幸せや健康を祈りながら、手首に白い糸を結び付けていくものです。結婚や送別、歓迎など、とにかく何かにつけて行われます。一度結んでもらった糸は3日間外してはいけないそうです。何本かなら良いのですが、たくさんしてもらうと大変です。シャワーのたびに濡れて、結構むれてきます。でも、集まった人の1人1人と話を交わすことができるので、なかなか良い風習だと思います。

 連日のバーシーで、Mさんの手首は両方とも、まるで包帯をしているかのようになってしまいました。Mさんの職場、お金持ちのラオ人ブントンさんの家でとバーシーは続き、最後の土曜はバーシーなし。隊員全員で新しくできた中国系のホテルに中華料理を食べに行きました。

 あいにくCちゃんは出張でルアンパパンに行っていたので参加できなかったのですが、ちょうどパクセーから私の同期のTが来ていましたし、女の子が大好きなMさんのために、こういうときに頼りになるOさんがラオ人のきれいどころを5・6人連れて来ました。食事の後は皆でディスコに行って大騒ぎ。Mさんを送るのにふさわしい、楽しい1日でした。

 次の日の朝Mさんは、仕事でヴィエンチャンに行くS君とOさんとともにヴィエンチャンに向かいました。空港には大勢の人たちが見送りに来ていました。ちょうど1年後には、私もこうしてヴィエンチャンに行くことになるのですが、果たしてどれくらいの人たちが見送りに来てくれることやら。どちらにしろ、Mさんほど大勢の人たちに見送られることはないと思います。

 こうして少しずつ人数が減っていき、今年の年末には4人になってしまうのです。だんだん増えていくのは良いのですが、減っていくというのは嫌なものです。

 ところで、最近気にかかっているのは、住居のことです。以前手紙にも書いたと思いますが、私の住んでいるホテルは、3階建てで、1階はディスコ、2回はオーナーや従業員が住み、残りの部屋はいわゆる連れ込みのように使われており、その3階ワンフロアーを私達専用に使っています。建物の中央は吹き抜けになっているので、夜9時から11時半まで、ディスコの音が響き渡り、ディスコ終了後は酔っ払いが玄関先からなかなか帰らず大騒ぎするという状態でした。

 でもまあそれにも慣れ、県でクーラーを付けてくれるというので、安心していました。クーラーが付けば、窓が閉められますから、外で酔っ払いの騒ぐ音も、少しはましになると思っていたのです。ところが、さすがラオスです。来週工事に来るかもしれないと聞いたのは、確か昨年の12月が最初。それから今まで、もう少し、もう少しと言うだけで、まだ付いていないのです。

 AさんとS君は待ちかねて、職場に頼んで付けてもらいました。ちょうど余っているクーラーがあったのだそうです。残りの3人の部屋にクーラーが付くのは、いつの事になるのか分かりません。もうすぐ一番暑い季節がやってきてしまいます。

 つい長々とクーラーについて書いてしまいましたが、書きたかったのはクーラーの事ではなく、下のディスコと2階の事なのです。以前あれだけうるさかったディスコが、今はシーンとしているのです。そのうえ、夜になっても1・2階は電気がつかず真っ暗なのです。

 真相はいまだにはっきりしないのですが、どうやら県の命令で手入れがあり、電気を止められてしまったようなのです。1・2階に電気がこなくなってもう2ヶ月近くたちます。オーナーはどこかに引っ越したようですが、何人かの従業員はまだ2階に住んでいます。

 1月頃から、どうもおかしいなとは思っていたのです。お客が来なくてディスコの音がしない日が、何日間か続いていたのです。他に新しいディスコが何件かできたので、そちらに客が流れたのだろうと思っていたのですが、きっと手入れのうわさが流れていたのでしょう。

 突然1・2階だけ電気が来なくなったときにも、下の人たちに聞くと、故障しただけだなどと言っていました。それ以来、夜はシーンと静まりかえり、3階に住む私達はとても快適なのですが、2階の人たちは大変です。扇風機も使えない、暗い部屋で生活しているのです。

 故障だと思っていた時や、単に手入れがあったのかと思っていた時は良かったのですが、手入れがあったのは私達が3階に住んでいるせいなのかもしれないと思い始めたら、急に下の人たちのことが気になってきました。下の音がうるさいと言った私達の言葉を、県の偉い人が聞き、下のディスコをやめさせるために電気を止めたといううわさもあるのです。ひょっとすると下の人たちは、私達をうらんでいるかもしれないと思ったら、急に居心地が悪くなってきました。

 もともと以前から、ホテルの玄関先に椅子を出し、お姉ちゃんやお兄ちゃん達がたむろしており、あまり感じが良くないので挨拶するのも稀だったのです。下のディスコにも、お義理で2・3回行ったきりでした。

 最近はあまり派手なお姉ちゃんはいなくなり、机をひとつ出して個人的に屋台のようなことをやっています。一度くらいは飲みに行って、関係改善を図ろうとも思うのですが、なかなか足が向きません。こういうときに頼りになるのはOさんです。早速下の屋台の常連になり、友好のきづな(?)となっています。

 Oさんは28才。北大を出た後営業の仕事をやり、そこを辞めて農林統計の隊員としてラオスに来ました。私より4ヶ月前ですから、チャンディーやAさんと一緒に赴任し、始めは私の部屋の隣に住んでいました。9月に病院のMさんが赴任し、ホテルのフロアーも男6人の過密状態になり、プライベートを重んじるOさんはすぐ近くのホテルの部屋を個人的に借り、そちらに移りました。

 そういった孤独を愛する反面、さすが営業で苦情係をやっていただけあって、人当たりが良く、良く気の回る人なのです。農林局で働いているということもあって、皆何か困ったことがあると、ついついOさんに頼ることになってしまいます。群れるのは嫌いなのに、いざとなると一番皆のために働いているという、まるでムーミンのスナフキンのような人なのです。いつも本当に感心してしまいます。

 近所のラオ人たちとも一番自然体で付き合っており、角のパーマ屋のお姉ちゃんが彼女なのではないかといううわさもありますが、プライベートなことを話す人ではないので真相はわかりません。(これは違ったようです)

 住居の問題に付いては、いろいろな思惑が絡み合い、少し複雑になってきています。もうひとつのホテル、シーランもMさんが帰国したことで1部屋空いています。そちらのホテルにはクーラーもバストイレも付いており、ちゃんと掃除もしてくれるそうです。

 5月には新隊員が来るので、センサバイのほうはまた過密状態になります。今使っている部屋以外の部屋は、雨漏りがしたり、問題のある部屋しか空いていないのです。

 シーランのオーナーは、部屋を遊ばせておくのが嫌なので、早く決めてもらいたい様子です。事務所のKさんは、最終的には誰か1人シーランに移っても良いようなことは言っていますが、なんとかラオ側に家賃を払わせたいらしく知らん顔。そのうえ、今改装工事をしている、センサバイの斜め向かいの建物に全員を移し、センサバイのディスコを再開させるなどといううわさもあります。

 いったいどうなるのか、もう少ししてみないと分からない状態なのです。私としては、テレビも温水シャワーも共同購入しましたし、共同の本箱も作りましたし、今、夜は静かですし、これでクーラーが付けば今のセンサバイが良いと思うのですが、どうなるか分かりません。

 それではまた、お元気で。

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