ルアンパパンの寺院

1994-03-21

 元気ですか。とても久しぶりに手紙を書いている気がします。うちの奥さんが来ていたのは2週間でしたが、長いような短いような日々…。とにかくバタバタと過ぎてしまいました。

 2週間、2人で10万円近く使ってしまいました。日本の感覚では、たいしたことはないのかもしれませんが、今の私の生活費にすれば3ヶ月分以上です。ラオスにしてはずいぶんな大名旅行をしたことになります。もっとも全部お金を出してもらったのですから、偉そうな事は言えませんが…。

 旅行に行ったルアンパパンは、なかなか良い所でした。北の高地にあるので、涼しくて過ごしやすい所でしたし、町並みもきれいでした。2日間かけてお寺めぐりをし、舟で2時間メコン川を上ったところにある洞窟寺にも行きました。

 このルアンパパンという町は、昔の王朝があった町で、日本でいえば京都にあたる町です。この町に対しては、ラオ人達も思い入れがあるらしく、職場でルアンパパンに行くと言ったら、ずいぶんうらやましがられました。他の所に行った時には、そんなことはありませんでした。

 町には外国人観光客も多く、ホテルもまあまあきれいでした。

 朝の4時ごろに鳴る鐘と太鼓の音には驚かされました。お寺の坊さんたちの起床の合図だったらしいのですが、合図なんてものではなく、演奏のようでした。うちの奥さんは、「どこかのドラ息子が、ドラムの練習をしているのかと思った」などと言っていました。

 他の町では聞いたことがありません。ひょっとするとやっているのに眠っていて気づかないのかもしれませんが、それにしてもあれほど大きな音は出していないと思います。

 ルアンパパンやシェンカンなどラオスの北部に行くと、高地ラオ族というさまざまな山岳民族が住んでいます。シェンカンに行った時には、それぞれの種族がそれぞれ独特な衣装を着て歩いていました。忍者のように覆面をした人たちもいました。でもルアンパパンでは、皆わりと普通の服を着ており、昔ながらの衣装を着ている人はチラホラいるだけでした。

 北部にいる隊員の話によると、この人たちは大変優秀で、考え方も日本人に似ており、良く働く人たちなのだそうです。でもこの国の実権を握っているのは低地ラオ族で、高地ラオ族の人たちはなかなか浮かび上がれないのだそうです。

 シェンカンに行ったときにも感じましたが、北部にいる隊員は皆大変そうです。シェンカンでは電気は1日3時間、水道もありませんでした。

 ここルアンパパンでは、町の中心部だけは24時間電気が来ますが、MSさん(女性獣医師)の住んでいる所は少し郊外なのでやはり電気は3時間。もう一人のルアンパパン隊員U君(農業学校教師)の所は、市内から30kmも離れているので、電気も水道もなく、買い物も満足にできないようです。そのため、半年前にラオスに来た時には100kgくらいあったU君は、17kgも痩せてしまったそうです。

 そのうえ、ルアンパパンではほとんど外食をする人がいないためか、まともな料理屋は3軒くらい。あとはホテルの食堂しかありません。それに比べて、私のいるサバナケットはなんて恵まれているのでしょうか。あらためて実感しました。

 ルアンパパンから一度ヴィエンチャンに戻り、それからサバナケットに帰りました。サバナケットにうちの奥さんがいる1週間は仕事を休むつもりだったのですが、帰ってみるとそうもいかず、結局毎日数時間は仕事に行きました。

 奥さんが来たら必ず遊びに来いと、数軒の家で言われていたので、挨拶に回りましたが、どこの家でも大歓迎されてしまいました。コーヒー屋のシオパイのおばさんも喜んでくれました。難産で生まれた子牛にトモという名前をつけた家の人たちなどは、ぜひ一緒に遊びに行きたいと言ってくれ、郊外のタートイハンまで遊びに行きました。帰りにはパーパオというサバナケット唯一のリゾート地(?)で、お昼までご馳走になってしまいました。

 イギリス人のニックの新居にも招かれました。なんと彼は一月800ドルもする豪邸を借りたのです。メコン川を眺められる広いバルコニーがついており、とてもラオスとは思えない雰囲気の家でした。もちろんお手伝いさん付です。同じ職場で働いているのに、ずいぶんな違いです。

 仕事のほうは、牛胎児の体内死亡という厄介なものが飛び込んできました。夕方、カンタボンがいきなり呼びに来たのです。

 破水したのは朝とのことでした。行ってみると確かに胎児は死亡しており、前足の先だけが外に出ていました。中を探ってみると子宮口は硬く、押しても引いてもびくともしません。日本でなら子宮口を開くホルモンを注射するのでしょうが、ここにはそんなものはありません。とりあえず大量のお湯で子宮口をマッサージし、子宮を収縮させる薬を注射して、翌日だめなら手術ということにしました。

 翌日事務所に行き、道具を集めようとしたのに、なかなか集まりません。この事務所にはほとんど器具がなく、ドンチャイ、スパサイ、パンシーなどが各自少しずつ個人的に持っているだけなのです。ところが、スパサイは出張中。パンシーも仕事でいません。

 そのうえ子宮を縫うために使う吸収糸も、2号糸という細い糸しかないのです。カンタボンに薬局でもう少し太い糸を買って来いと言うと、何もわからないくせに「大丈夫。これでいいじゃない」などと言うのです。ついついラオスに来て始めて直接怒ってしまいました。

 声を荒げて「いいから買って来い!」と言うと、かわいそうにスゴスゴと買いに行きました。結局は薬局にも人間用の細い糸しかなかったのですから、怒るのではなかったと反省してしまいました。

 と、道具の少なさに不安を感じながらも手術を始めたのですが、案の定でした。何しろ鉗子が2本しかないのですから、出血を止めきれないのです。それでも何とか、2時間半かけて手術が終わりました。

 手術自体は成功したのですが、やはり何といっても出血が多すぎたらしく、牛は夕方死んでしまいました。日本の牛ならあれくらいの出血では死なないと思い、たかをくくっていたのですが、ラオスの牛は小柄なので、体の比率からすればやはり出血が多すぎたようです。

 日本でなら助けられたのにと、残念でなりません。子宮口を開く薬があれば、手術の必要もなかったかもしれませんし、もう少し道具があれば出血も止められたと思います。でもなんと言っても最大の原因は、出血量について、たかをくくっていたこと。次にやることに先に頭が行ってしまい、止血をおろそかにした私のミスです。それだけに悔やんでも悔やみきれないものがあります。

 夕方、牛が死んだことを知らせに飼い主のおばさんがやってきたとき、事務所の皆は「大丈夫。食べられるから」などと言って慰めてくれましたが、なかなか心が晴れませんでした。つい帰ってからも、うちの奥さんに愚痴ってしまいました。こういうとき身近に愚痴をこぼせる相手がいたのは、ありがたいことでした。

 サバナケット最後の夜は、職場の皆が集まって、バーシーをやってくれました。このバーシーというのは、集まった一人一人が祈りを込めて、腕に白い糸を結び付けてくれる儀式で、ラオスではお祝いや、旅立ちや、歓迎などのときにやるのです。糸を結びながら、「健康で」とか「いっしょに働けてうれしい」とかいろいろ言ってくれるのです。

 うちの奥さんに結ぶときにもいろいろ言ってくれるので、私がいちいち通訳していました。この糸は3日間外してはいけないと言われたので、彼女はそのまま外さずに帰国しました。

 通訳と言えば、この前ヴィエンチャンにだけ来たときには、うちの奥さんは私のラオ語を誉めてくれたのですが、今回サバナケットに来たことによって、私のラオ語のいいかげんさがすっかりバレてしまいました。

 ヴィエンチャンでなら、話す相手はお店の人や、サムローの運転手くらいですから決り文句ですみます。でも、サバナケットに来るとそうもいかず、良く分からないのにウンウンとうなずいていることがバレてしまったのです。大体普段から、私は感覚だけで会話しているのところがありますし、サバナケットの隊員は皆私よりラオ語がうまいのですから、バレないわけがありません。最後には、通訳しても「本当にそんなこと言っているの」などと疑いの眼差しで見られるようになってしまいました。

 ともかく、大変楽しい2週間でした。ラオ人の親切心と人の良さを再確認した2週間でもありました。

 16日にうちの奥さんは帰国し、17日は狂犬病のレポートのことで跳び回り(日本に帰ったら、学会で発表しようかとも思っています。そのためには、まだまだ書き直さなくてはいけないのですが)、18日にサバナケットに戻りましたが、3日くらいボーとしてしまい、手紙も書けませんでした。でもまた明日からはペースを取り戻し、また手紙も定期的に書こうと思います。

 ではまた、お元気で。

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