大晦日のファッションショー

1994-01-05

 元気ですか。明けましておめでとう。

 昨年の暮れは、盛りだくさんの豪勢な年越しをしました。昼はシーランに集まり、餅つきをしながら、スキヤキを食べました。シーランの向かいの家の女の子や、センサバイの隣の家の女の子達もやって来て、一緒に食べました。始めは、食べた事がないので戸惑っているようでしたが、とても気に入ったらしく、最後にはお代わりまでして食べていました。(タイ風のスキヤキというのはありますが、スープが多く、似ているようで違うものです)

 夜は、中国人が経営するナンハイホテルのオープニングパーティーに行きました。プールサイドに特設舞台を作り、各国の民族衣装のファッションショーを見ながら年越しをするという趣向です。1テーブル10人で200ドルですから、こちらではかなりの金額です。

 CちゃんとMさんが日本代表として浴衣で出る事になっていましたから、私達も浴衣に半被がけで行きました。料理の方は、冷えてはいたものの子豚の丸焼きまで出ましたし、タイから来たプロのファッションモデルのお姉さん達がきれいだったので、大変満足しました。

 一緒に年越しをした9人のうち(Oさんは任国外旅行中)、来年もサバナケットで年越しするのは、私と、Sくんと、病院のMさんの3人だけ。残りの人達は今年中に帰国する事になるのかと思ったら、少し寂しい気がしてしまいました。

 元日は午前中から、お招きを受けていた副知事のスカスムさんの家に行きました。広い芝生の庭に、椅子、机、ござを出し、牛肉や豚肉の串を炭火であぶりながらのガーデンパーティーでした。幸い30日までの寒さがウソのように暖かく、木陰の涼しさが心地良い日でした。

 スカスムさんの奥さんは病院で働いていますから、職員のおばさん達が集まっていましたが、このおばさん達の騒ぎようは大変なものでした。さすがに副知事さんの家だけあって、出されたお酒は、いつもの宴会で出される安いラオラオではなく、ビールやウイスキーでした。そのウイスキーの一気飲みを始めたのです。(コップで、ではなく、ビンのふたでですが)酔っ払って吐きそうな人がいても、押さえつけて飲ませていました。1年に1回の正月とはいえ、たいへんなパワーです。

 私達にも、飲め飲めと言うので、結構飲んでしまいました。普段は1滴も飲めないチャンディーまで、何杯か飲まされていました。帰ろうとすると引き止められ、酔っ払って眠いのに帰る事も出来ません。フラフラになったチャンディーを介抱するふりをして、2人で先に帰りました。

 次の2日は、ラオスでは休日ではありませんが、今年は日曜日。ラオスでは珍しい連休でした。ボワカムさんの田舎の家に誘われていたので、チャンディーと病院のMさんとバスで行く事にしました。Aさんと農場のMさんの2人はバイクです。

 朝7時にバスターミナルに行き、ボワカムさんの田舎、アサパントン行きのバスに乗り込みました。アサパントンはサバナケットの南70kmくらいの所にあり、バスで約3時間掛かります。70kmですから、3時間もかからないと思うでしょうが、バスはボロボロですし、道も半分以上未舗装、手を上げる人がいるとどこでも止まってしまうバスなのですから、しかたありません。案の定、途中故障して、修理のための休憩までありました。まあ1人700キープ(140円)ですから、こんなものでしょう。

 ボワカムさんは昔アサパントンの市長をやっていただけあって、町の人は皆家を知っており、迷うことなく家まで行けました。結構大きくきれいな家で、魚の養殖用の大きな池までありました。もう庭にパーティーの用意ができており、私の課の前所長、ブンクワンも来ていました。彼は今このアサパントンの市長なのです。バイク組の2人はなかなかやって来ず、先に宴会が始まりました。(途中バイクがパンクし、やって来たのは2時過ぎでした)

 パーティーに来ていたドクターのバイクで、市内の病院へ見学にも行きました。ベッド数は20くらいの病院で、一番多い病気はマラリアと盲腸。その時も10人くらいの人がマラリアで入院していました。入院患者は10人でも、それぞれの家族が泊まりこんで看病するため、病室は人でいっぱいでした。日本ではとても病院とはいえないような所で、たとえ病気になっても入院したいとは思えないような所でした。

 その病院からの帰りに、ちょっと失敗してしまいました。暑かったので、Gジャンを脱いで小脇に抱えていたのですが、ふと気を抜いた瞬間に落としてしまったのです。すぐにバイクを止めてもらい振り返った時には、もうありませんでした。ポケットにはサングラスも入っていたのに、惜しい事をしました。周りの人達に聞いても、誰も見なかったと言います。きっとすばしっこい奴が、持っていったのでしょう。

 今日その話をカンタボンにしたら、ピー(ラオスの精霊と言うか、お化け)が持っていったんだと言っていました。こちらの人達は、何か物をなくした時、そう言ってあきらめるのだそうです。私もそう思う事にしました。

 3日は1日中休んでいました。(日本人は正月3日間働いてはいけない事になっているのだと、職場の人達に言ってありました)

 4日はチャンディーと2人、副知事のお供をして、ここから南へ40km程下ったチャンポン市の魚養殖農家3軒と、さらに南に30km程下ったソンコン市の灌漑工事の視察に行きました。なぜ私達が行くことになったのか分かりませんが、うちの所長が行ってこいと言うので行ってきました。(チャンディーは、養殖の仕事をしているので分かりますが)

 昼食に出されたコイパーという料理には、まいりました。生きた赤アリと生の川魚の切り身を混ぜたもので、皿の上では赤アリがゴソゴソと動いていたのです。チャンディーは何回か食べた事があり、「おいしいスヨ」などと言って食べていましたが、「ちゃんと噛まないと、アリが胃の中で生きていて胃を食い破るから危ないンスヨ」などとも言うので、私の分だけ火を通してもらいました。動いていなければ平気なので食べましたが、少し酸味のあるおいしいものでした。

 Bさんの話になりますが、最近彼は会うたびに、車が欲しいだの、車がダメならバイクでよいなどというので、困ってしまいます。「皆さんも色々な所に行きたいでしょ。JOCVに頼んで車をもらってください。普段は、私が管理してあげますから」などとムシの良いことを平気で言います。「でも、そんな援助枠はないので無理ですよ」と言うと、「ダメだと思って黙っていたらもらえないでしょ。言うだけ言ってみてください」などと言うのです。最近調査団とか企業の人達の案内ばかりやっていたので、協力隊からもいろいろな物やお金をもらえると勘違いしたのかもしれませんが、はっきり言って私達に言われても、どうしようもない事なのです。

 この前彼に他の隊員が、日本からのお土産だと言って民芸品を渡した時、一瞬彼の顔に「なんだこんな物」という表情が浮かんだのを、私は見てしまいました。物をもらい慣れるというのは、恐ろしい事なのかもしれません。

 以前、世田谷の病院に勤めていた時の事を思い出しました。往診先でビール券をもらい、帰ってから院長にその事を言うと、なんでもらって来るんだと怒り出したのです。「飼い主さんからは、ちゃんと治療費をもらっているのだから、それ以外何ももらってはいけない」と説教されてしまいました。往診先で「これは院長に内緒だけど」と言っていたのは、この事だっのかと思いました。せっかくの好意。あの場は受け取って正解だったのではないかと思います。まあ、そのへんの根本的な考えの違いもあって、1年でやめる事になったのだとも思いますが…。今にして思えば、物をもらう恐ろしさを教えてくれようとしたのかなとも思います。

 最近かかわっているワクチン工場の件にしても、援助のあるうちは贅沢過ぎるほどのパンフレットを作ったりとお金を使い放題使い、各県からの代金回収も熱心にやらず、援助の終わる直前になって慌ててまた次のスポンサーを探しているという風にとれない事もありません。

 良く日本の海外援助のやり方は下手だといわれますが(こちらに分からないだろうと思って、ラオ人同士がそんな事を言っているのを聞くと、腹が立ってしまいますが)、お金というものは、あげるのも、もらうのも難しいものなのだと思います。

 ではまた、お元気で。

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