狂犬病の子犬
1993-12-15
元気ですか。本当になんだかバタバタとした日々を送っています。まるで今までのツケが一度にやって来たような感じです。おかげで手紙を書く暇もなく、前回はハガキにしました。今、やっと暇になったのかといえばそうでもなく、まるで私がビエンチャンから帰るのを待っていたかのように、牛の手術が入ってしまいそうです。 昨日の夕方、うちの牛の子供が生まれない、というので行ってみると、確かにお腹はパンパンで、膣からは何かが飛び出ています。手を入れてみると、子宮頚管の狭窄です。まだ初産の牛で、頚管には指一本さえ入りません。これでは、子牛が出て来られるはずがありません。とりあえず何も持たずに行ったので、昨日はそれで帰りました。 エストラジオールかプロスタグランジンとも思いましたが、薬屋に行って聞いてみても、そんな薬はありません。 今日はホースを持っていき、サイフォンのようにバケツからお湯を流しながら頚管マッサージを行い、なんとか指ぐらいは入るようにしました。うまくすればこれだけで生まれてくるはずです。ダメならば明日は帝王切開の手術です。しかし、手術はしたくても器具はなく、JOCVから援助物資として送ってもらおうと思い書類を作っている最中だったのです。間に合うわけはありません。 Cちゃんの行っている農業学校を見に行った時に器具があったことを思いだし、さっそく借りに行ってみることにしました。ビエンチャンから帰った次の日にサバナケットでも狂犬病の検査ができないかと思い、先週の週末に見に行ったのです。そこの責任者はスパサイの奥さんで、親切に見せてくれたのですが、獣医課よりはましで、何とか使えそうな顕微鏡が一台と、誰も使ったことがなさそうな手術器具が少しだけあったのです。 スパサイがいれば話しは早いのですが、あいにく彼は私と入れ違いで出張に行ってしまいました。なぜかいつも手術となると、一番頼りになりそうな彼がいません。今日も、元獣医だというドンチャイというおじさん(彼はもう1ヶ月前から職場に来ていましたが、今度正式に復帰したようです)と、大幅に遅刻したうえ、ピカピカのクツにブレザーという、とても現場で働くカッコウとは思えない姿で出勤してきたカンタボンをつれて行ってきました。 明日もし手術となったら、事務長のパンシーも手伝いに来るといっていましたが、そう頼りになりそうになく、結局は1人で何から何までやることになりそうです。実は、皆手伝うというより、見に来たいのです。皆、できないのに手術は大好きです。今日も、カンタボンが牛を見たとたんに、「手術、手術」とうれしそうに騒ぐので、少し腹が立ってしまいました。 「手術はあくまで最期の手段。もし自然に生まれるのならその方が良く、第一今は、器具もないだろ」というと、なんとか納得していました。 それでも、少ないとはいえ、どうにか器具もそろいました。糸はない(人間用の細い糸しか売っていません)ので、市場でタコ糸を買い、カオピヤック屋(うどん屋)で砥石を借りて、メスを磨ぎ、なんとか用意はできました。さて、明日はどうなるでしょう。行ってみたら生まれていたというのが一番良いのですが…。結果は、次の手紙で報告できると思います。 いきなり始めから、今日の事を書いてしまいました。少し逆のぼって、ヴィエンチャンでの出来事から書くことにします。 12月3日に犬の頭を持ってヴィエンチャンに行ったのですが、飛行機の中で偶然、副知事のスカスムさんと一緒になりました。この人は大変切れ者で実力者。知事は前の大統領の息子で、本当のボンボン。実質的には、このスカスムさんが、サバナケットではナンバーワンで、ラオスの南半分をまとめている、というウワサです。 でも、私にとっては良いおじさんです。ヴィエンチャンに着いたら、車で獣医課まで送ってくれ、ひとこと言ってくれたおかげでスムーズにことが運び、その日のうちに検査が終わってしまいました。 結局、持っていった犬は狂犬病でした。身体の方を食べてしまった人達は、大丈夫なのでしょうか。まあ、たぶん平気なのでしょうけど。 1週間の予定できた出張だったので、一応次の日も顔を出し、夜は国連ボランティア主催のパーティーに行きました。サバナケットにいると、英語を使うチャンスはほとんどないのに、さすがは首都、色々な国のボランティアがいるので、どうしても英語になります。 聞いている分には良いのですが、いざ英語で話そうとすると、英語で話そうとしているのに、単語がラオ語になってしまい困りました。完全にチャンポンになってしまいます。 次の日は国際ボランティアデー。ラオスにいる各国ボランティア主催のマラソン大会がありました。その手伝いに行き、夜は船上パーティーに出ました。 と、ここまでは遊び気分でのんびりしていたのですが、次の日からの4日間は、めまぐるしい日々でした。きっかけは、月曜に獣医課のラボに行った時に見た資料でした。その資料によると、ラボで調べた犬のうち、90%以上が狂犬病(+)だというのです。狂犬病が多いとは聞いていましたが、これほどとは思っていませんでした。 さっそく市内の病院を回って調べたら、JICAの援助でできた微生物・ウィルスセンターのようなものがヴィエンチャンにあり、犬に噛まれた人は全てそこに行くということが分かりました。その足で行ってみると、以前会ったことのあるJICAのMさんがいました。Mさんは、事務所のHさんの知り合いで、獣医の資格を持っていますが、今は寄生虫の専門家です。 Mさんの口利きで調べてみると、ヴィエンチャン市内で昨年1年間で820件もの犬による咬傷事件があり、 咬傷事件後ちゃんとワクチンをうった人は4割程度しかいないことが分かりました。その上、ラオス国内唯一の動物用ワクチン製造工場が、つぶれそうだということも聞きました。 もしその工場がつぶれてしまったら、ワクチンは全て輸入に頼る事になります。当然価格は高くなります。今でさえラオ人にとってはワクチン代金は高く、飼い犬に狂犬病の予防注射をする人が少ないのに、価格が上がったら、ますます注射する人が減ってしまいます。それに、今、仕事で使っている牛・豚用のワクチンもなくなってしまうかもしれません。 ラボの所長が工場の所長と友達だというので、見学に連れていってもらう事にしました。驚いた事に、ラオスにしては珍しいほど、ちゃんと仕事をしていました。 工場は、公共福祉的な性格が強く、原価の半分くらいでワクチンを出荷しているため、ワクチンが普及すればするほど赤字になるのだそうです。今年までは、国連からの援助で動いていたのですが、それも今年でお仕舞いになり、来年からの資金のめどは立っていないのだそうです。 「300万円あれば、後2年間はなんとかもつ。その間になんとか次の援助先を探すから…」と所長に泣きつかれましたが、こういう消えていく援助に対しては、JOCVやJICAはあまりあてになりません。結局、私が所長を連れて、日本大使館へ援助のお願いに行くはめになってしまいました。 狂犬病の恐ろしさと工場の必要性についてのレポートも提出する事になり、サバナケットに帰ってからレポートをまとめることになりました。 そんな事で、バタバタしている間にも、隊員の入れ替わりがありました。ヴィエンチャンの看護婦さん、Sさんが帰国し、代わりにヴィエンチャンの看護婦さん1名とシェンカンの助産婦さん1名、同じくシェンカンの果樹隊員1名がやってきました。もう2期も下の人達がやって来たのかと思うと、感慨深いものがありました。 始めにラオスに来た頃、2期も上の人達といえばラオ語ペラペラで、すごいなと思っていたものでした。でも今の自分を振り返ってみると、ラオ語はあまり進歩していないような気がします。単語は忘れてしまったものの方が多いように思います。残り少ない単語を組み合わせて使い、それに周囲の人達が慣れてしまったため、なんとか毎日過ごしているような気がします。使わない言葉というのは、すぐに忘れてしまいます。せっかくラオ語を覚えても、日本に帰ったらすぐに忘れてしまうかもしれません。 まあ、そんな風に日々を過ごしているうちに、今日になりました。忙しいといっても、日本と違ってストレスがたまるほどではありませんから、かえって身体の調子は良いくらいです。基本的には気楽にやっていますから、心配はしないでください。 13日に飛行機事故があり、シェンカン行きの飛行機が落ち全員(小型機なので13人くらい)死亡したようです。ひょっとすると、日本でも報道されるかもしれませんが、私とは関係ない事故ですから、心配ありません。 それではまた、お元気で。 |