パンシーとその娘達

1993-11-26

 元気ですか。うちの奥さんからの手紙に、おばあちゃまをつれて新潟に行くと書いてありましたが、もう行ったのでしょうか。新潟では雪が降ったという情報も伝わってきました。もうずいぶん寒いのでしょうね。

 こちらも今週に入ってから、涼しいというより寒いくらいです。今までは布団1枚だけでしたが、昨日市場で毛布を買ってしまいました。毛布といっても化繊の薄い物です。1700キープ(340円)ですから、これで寒さがしのげれば安い物です。

 ところで今、私は酔っています。今は金曜の夕方なのですが、今朝職場に行くと、事務長のパンシーがやって来て、一緒に知り合いの結婚式に行かないかというので、ホイホイとついて行ったのです。結婚式は町から10kmほど離れた家であったのですが、行ったとたんにラオラオをいやというほど飲まされたのです。

 別に飲みたくなければ断ってもよいのですし、たとえ注がれても少し飲んで残りは捨てても良いのですが、私にはそんなもったいない事はできません。結局全部飲んでしまいました。

 朝の9時過ぎだというのにすっかり出来上がってしまい、その場に居たお兄ちゃんとすっかり気が合ってしまいました。その人もかなり酔っており、さかんに自分の妹をお前のミアノイ(ラオス妻)にしろと奨め、女の子を連れてきて、くっつけようとするので、内心少し嬉しがりながらも困ってしまいました。

 いったい誰と誰が結婚したのかもわからないまま昼頃には帰ってきて、それから今までずっと眠ってしまいました。

 本当は、午前中職場で手紙を書かないと、今週は手紙を出さずに終わってしまうと思っていたのですが、そんなわけで午前中は手紙を書けず、まだ酔いの残った頭で手紙を書き始めました。

 今回の手紙は、いつにも増してまとまりのない物になるかもしれませんが、出さないよりは良いと思いますので、覚悟して読んでください。

 部屋の改善計画は着々と進んでいます。この前も木を買ってきて本棚を作りました。自分の部屋にも本棚が欲しくなり作ったのです。(本当は、ほとんどカンタボンに作ってもらいました。奴の仕事は早いし見てくれは良いのですが、結構やる事が雑で、釘が飛び出ていたりもします。でもやってもらったのだから文句は言えませんが…)先週作った方の本棚は、皆の共同品として廊下に置き、そこに持ち寄った本・雑誌などを集め、ミニ図書館にしたのです。

 先週作った本棚の木は、往診先の製材所でもらってきたのです。またそこに行けば、きっとただで木をくれる事でしょう。でも、1度目は良いとしても、またもらってしまうのはなんだか気がとがめてしまいます。職場の人達にそう言うと、そういう微妙な心理みたいな事を分かってくれました。ラオ人もそんな風に思っているのかと思うと、なんだか嬉しくなってしまいました。

 ですから、今回は他の製材所に行って、ちゃんとお金を払って木を買ってきました。ところ買ってきた木が新しすぎてまだたっぷりと水分を含んでおり、本を入れたら本が濡れてしまったのです。今屋上で乾燥中です。

 カンタボンといえば、奴はマラリアでした。今月の初めに田舎へ出張に行き、それ以来微熱がなかなかぬけないと言っていたのです。昨日、痛いから嫌だというカンタボンを無理やり病院の検査技師、Mさんのところに連れて行き検査してもらったら、確かにマラリアでした。

 日本人だったら高熱を出し危ないかもしれないのに、丈夫なものです。もうマラリアは5回目だと言っていました。病人相手に、仕事をやる気がないなどと腹を立てていたのかと思うと、恥ずかしくなりました。しかも本棚まで作らせて…。少し反省しています。さすがに今日、カンタボンは休んでいました。

 先週の週末は、3日連続で麻雀をやってしまいました。以前手紙に書いたラック35の総合開発が、来年3月から始まる事になり、コンサルタント会社の、Sさんという人がやって来たのです。Sさんは47才。元協力隊員で、革命当時にこのサバナケットにいた、ラオス派遣中止前の最後の隊員です。(ラオスにはその後派遣中止になっており、3年ほど前に派遣再会になったばかりです)

 そのためSさんは、この町に愛着があり、サバナケット隊員に対しても思い入れがあるらしく、とても親切です。以前調査に来た時にも麻雀をやり、その時私が大逆転で勝っていたので、復讐戦に燃えていたのです。ところが、Sさんとはよっぽど相性が良いらしく、1日目も2日目も私が勝ってしまったのです。それも、どういう訳かSさんからあがってしまうのです。3日目にようやくSさんがトップになり、解放してもらえました。(私は2位でした)

 気の合う人達との麻雀はおもしろいものですが、麻雀をやりながら色々話してくれた話も、興味深いものがありました。

《以下に述べる事については、酔っ払ったSさんとの内輪話であり、日本の海外援助の実態というわけではありません》

 コンサルタント会社の人達が、JICAの以来で調査に行く場合、調査に行くということは実行するという事を意味している場合が多く、本当は、開発がその国の実態に合うかどうかを調べるのが仕事なのに、事前に決まっている開発をどういう風にやったら実現できるか報告する事が仕事になってしまいがちなのだそうです。

 今回のラック35の開発にしても、灌漑ダムを作って農業の総合開発をした場合、それだけの需要があるかどうかは二の次であり、ダムも本当は小さい物をいくつか作った方が効果的かもしれないのに、多分ラオ人がメンテナンスをしないだろうということと、日本側のモニュメントにしたいという意思のため、大きなダムを一つということになったらしいのです。

 援助資金も、コンサルタント会社が15%、総合建築会社、いわゆるゼネコンが45%、地元の実力者が30%とり、地元に実際落ちるのは10%くらいしかないらしいのです。その10%も、ラオスの場合分からないのだそうです。

 ゼネコンにとって一番大切なのは、期限内に工事を終える事。そのためには材料の安定供給と、質の良い労働力が必要なのです。その両方ともラオスにはないので、多少お金が掛かってもタイから、という事になるだろうというのです。そうなれば、開発といっても地元にはほとんど利益がありません。

 せっかく作ったダムにしても、このへんの水は砂などを多く含んでいるので、ほっておけばすぐにダムの底に砂がたまってしまい、ダムが使えなくなってしまうのだそうです。

 もちろん定期的に底をさらっていれば問題はなく、そのための指導もし、機械も置いていくけど、ラオ人の事だから多分そんな面倒な事はせず、ダムも使えるうちは使って、もし使えなくなったら、そんなダムを造った日本が悪いということになるだろうというのが、Sさんの予想です。その話を聞いて、私も多分そうだろうなと思ってしまいました。

 国家予算の半分以上が外国からの援助というお国柄、もらう事に慣れすぎているのです。在る時は使い、なくなったらそれまで。またどうせもらえるさ、という思考法なのです。

 今回の開発にしても、お祭好きのラオ人ですから大歓迎なのですが、造ってからどう使うかという先のことまで考えている人は多分いないのでしょう。いったいどうなるのでしょうか。ハタから見ていても心配になってしまいます。

 この開発に伴って6人ほどの日本人がサバナケットに住む事になるそうです。サバナケットの日本人は、協力隊だけではなくなるのです。きっと生活レベルがまったく違う生活をするのでしょうから、なにかと比べられてしまうかもしれません。でもその反面、日本の情報や物などが少しは手に入り易くなるかもしれません。いずれにしろ、良い人達が来ることを願うばかりです。

 今回はこのへんで。それでは、お元気で。

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