1993-09-09

 元気ですか。この前の手紙を書いていた時、膝の上にいた子猫は、手紙を書いた翌日に家出してしまいました。預かってきたときには下痢をして熱もあり、ぐったりとしていましたが、薬を飲ませたらすっかり良くなって飛び回っていました。どこへ行くにも私の後について来て、すっかりなついていたので残念です。

 金曜の夜シーランで集まりがあり、センサバイの全員で出かけ、帰ってみたらもう子猫の姿は無かったのです。皆が一度にいなくなったので寂しくなり、玄関のシャッターの隙間から外に出てしまったようです。回りを探してみましたが見つからず、そのうち帰ってくるかと思ってしばらく食器も出しっぱなしにしていたのですが、結局帰ってきませんでした。

 でも、考えてみれば、あのまま居着いてしまい情が移ったら、日本に帰るとき困ってしまうでしょうし、あくまで本人(?)の意思で出て行ったのですから、かえって良かったのかもしれません。

 昨日Cちゃんが任国外旅行から帰って来たので子猫のことを言うと、意外とあっさり納得してくれたのでホッとしました。

 Cちゃんと同じ飛行機で調整員のKさんがやってきました。(C.C.とも呼ぶ。協力隊ラオス事務所の代表。今年の5月末から、それまでのTさんからKさんに代わりました。ラオ語に訳すとホワナー・コン・アササマック・ニープンつまりJOCV所長になります。そのため、ラオ人は、私たち隊員が、このKさんに雇われていると思っていますが、そうではありません。)サバナケット隊員の職場と住居の見学ということで明日までいるのです。昨日の夜はセンサバイに来て、下のディスコのうるささに驚いていました。

 この住居問題については、県のほうでも色々考えてはいるようです。県側の窓口は、日本の大学に留学経験があり、日本語ができるボワカムさんという人です。この人は、それまで田舎のほうで働いていたようですが、サバナケットにも協力隊員が増え、日本の援助も入る事になったので抜擢され、張りきっているのです。おかげで、今度から月に1回副知事のスカスムさん(県一番の実力者。知事は、ラオスの元大統領カイソンの息子ですが、まだ若く、はっきり言ってお飾りです)と協力隊員の連絡会のような事をやる事になってしまいました。

 住居について言えば、シーランのほうは問題ないのですが、こちらのセンサバイは、はっきり言って街で一番風紀の悪い、うるさいところなのです。下のディスコの客質が悪く、2階は実質ラブホテルになっているのです。県側で新しい住居を探し始めているそうなので、ひょっとすると引っ越す事になるかもしれません。

 でも、色々文句を言っていても、いざ引越しが現実味を帯びてくると、このホテルにも愛着を感じてしまいます。うるささにも慣れて、あまり気にならなくなってきましたし、なんと言っても屋上からの眺めには、捨てがたいものがあります。家具や共同の冷蔵庫、洗濯機などの問題もあります。

 シーランのほうも、来年の4月にはMさん、7月にはSAさん、Sさん、Cちゃんが帰国し、部屋が空くことになるのです。結局、センサバイにいる6人のうちの何人かが引っ越し、後は残るという形になるかもしれません。

 Kさんが来たもうひとつの目的は、カウンターパート留学制度のテストです。これは、協力隊員が職場でいっしょに働いているラオ人を、日本で10ヶ月勉強させる事ができる制度です。今回は、MさんとSAさんのカウンターパートが、日本語のテストと面接を受ける事になったのです。

 この話が知れ渡り、今職場では大騒ぎです。職場の人達もこの制度の事をなんとなくは知っており、カンタボンなども日本に行きたいと言っていました。しかし、サバナケットの第一号隊員がMさんですから、まだサバナケットから日本に行った人はおらず、本当にそんな制度があるのかどうか半信半疑だったようです。ところが、今回本当にJOCVの所長がやって来てテストをやると言うので、本当に行ける事が分かってきたらしいのです。昨日も職場の所長に相談されてしまいました。

 この制度には色々な条件があります。まず、協力隊員と同じ職種で、同じ職場である事。ある程度の実務経験があること。20〜40才である事。そして、日本語か英語がある程度できることです。また、隊員が派遣後1年くらいたち、人物を見極めた上で1名推薦し、現地の調整員の行うテストに合格しなければなりません。そのうえで、日本での受入先があれば、10ヶ月間日本で研修できるのです。

 私の場合、もし誰か送るなら、来年の5月くらいという事になります。そのためには今年中には決め、日本語を教えなければなりません。この国の場合、留学して帰ってくると箔がつき、給料も上がったり、出世したりするそうです。なんだか人の一生を決めるようで、気が重いようにも思えます。

 所長の話というのは、結局これを誰にするかというものでした。誰にするも何も、私の場合、今常に一緒に働いている獣医といえば、所長と、カンタボンとスパサイ、それと今は事務長ですが昔は獣医だったという(このへんがこの国のいいかげんなところ。結局、獣医というもの自体あいまいなのです)パンシーしかいません。所長は、年齢ぎりぎりですし、いまさら日本語を覚える気はなさそうです。パンシーはすっかり事務屋さんです。カンタボンは、まだ1年目で、はっきり言って何もわかっていません。スパサイが良いのではないかと言うと、所長も納得していました。

 ところが、当のスパサイといえば、家の仕事が忙しいので日本語を勉強する暇が無いと言うのです。(こちらの人達は家で他の仕事をしている人が多く、勤務時間内でも、仕事があるといって帰ってしまったりします。もっとも、公務員の給料はだいたい20ドル−カンタボンで15ドル−くらいですから、それだけでは生活できないのですが。)

 逆に、カンタボンは以前から少し私に日本語を習っており、自分が日本に行けるものと1人決めしていましたので、少しいじけてしまいました。しかし今彼を日本に行かせても、あまり意味がありません。もう少し仕事を覚え、次の隊員が来たときに推薦してもらった方が、結局は彼のためになると思うのです。その事を彼に言うと、少しは分かってくれました。

 この制度はどうしても使わなくてはいけないというものではないのですが、せっかくのチャンスなのですから、できれば生かしたいと思っています。もう少し所長やスパサイと話し合ってから決めようと思っています。

 話は変わりますが、昨日バイクが貸与になりました。バイクと聞いただけで、危ないと思い心配するのではないかと思いますが、こちらでは必需品なのです。今まででも、週1回くらいは、バイクの2人乗りで往診に行ったりしていました。本当は、バイクの2人乗りはJOCVの規則で禁止されているのですが、そうも言っていられないのが実情です。かえって、正式にバイクが貸与になり、2人乗りをしなくてもすむようになりホッとしています。

 貸与になったバイクは、ヤマハのDT50という、こちらの道にぴったりの荒地用です。この何年間かバイクなど乗った事が無く、多少不安ですが、幸いこちらは車も少なく、スピードを出せるような道路もありません。充分気をつけて乗りますので安心してください。同じホテルにAさん(37才自動車整備)とS君がいますので、整備については問題ありません。

 現在サバナケット隊員10人のうち、すでに6人はバイクを貸与されていますが、病院勤めのSさんと新隊員のMさんは貸与されません。かわいそうな事に、バイク好きのS君も、学校の先生なので貸与されません。

 考えてみたら、ラオスに来て5ヶ月も経っていたのですね。来月の今頃には4分の1が過ぎてしまう事になります。色々やったようで、結局何もやっていなかったような5ヶ月間でした。この調子で2年間が過ぎてしまうのでしょうか。少し不安です。何かこれをやったんだと形に残るような物が残れば良いのですが、実際にはそんな仕事はなかなかないものです。まあ、あせらずマイペースでがんばります。

 それではまた、お元気で。

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