製材所にいた子供

1993-06-30

 元気ですか。手紙ありがとうございました。先週の木曜日に手元に届きました。

 今どうやって手紙が手元まで届いているか説明しましょう。ラオスには宅配制度がありませんので、誰かが郵便局まで取りに行かなければいけないのです。最初にいたヴィエンチャン事務所あての手紙と、今の職場あての手紙と、ホテルの私書箱あての手紙、この3つのルートから色々な手紙が届いている状態なのです。

 ヴィエンチャン事務所あての手紙は、ヴィエンチャン行った時にたまった分をもって来るか、メディカルコーディネーター(隊員の健康管理係)のHさんが、ワクチン注射をうちにサバナケットに出張して来た時に持ってくるのでかなり遅れて届きます。事務所あての手紙とホテルあての手紙は同じくらいに届くはずなのですが、ホテルの人はたまに忘れて郵便局に行かない事があります。

 先週もらった手紙も、K君が手紙を出しに行ったら日本人あての手紙が来ていると言って手渡され、手元に届きました。

 仕事に行く時に渡されたので職場で開けて読んでいると、皆手紙に入っていた写真を見たがり、見せてあげると一枚一枚食い入るように見ていました。まだまだ写真というもの自体が高価で珍しいものらしく、日本の写真などを持って行って見せると皆熱心に見てくれます。

 佑さんの写真を見て、これは誰だと聞くので叔母だと言うと非常に驚いていました。いくらなんでもこの写真は、若く写りすぎているのではないでしょうか。きれいだと誉めていました。もっとも、広の写真も、うちの奥さんの写真も同じように誉めていましたけど。

 ラオ語は語彙が少ないので、誉めるときはいつも「ガーム」なのです。ひょっとすると写真自体が良く写っている(ピントが合っている)事を誉めていたのかもしれませんが、私の語学力では定かではありません。

 森田のおばさんからの手紙で母の入院を知り、どうしているかなと思っていたらちょうど手紙が届きました。同時にうちの奥さんからの手紙も来ており、法事の時の事なども書いてありましたので様子が分かって少し安心しました。

 その手紙によると、法事の時に皆で手紙とビデオを見て「気楽でいいんじゃないの」という感想が大半を占めていたとの事ですが、それはないんじゃないですか。

 また佑さんに、「自己宣伝がうまいんだから」と言われそうですが、少し言い訳を言わせてもらいます。

 手紙の大半とビデオは、ヴィエンチャンにいる時の物で、まだ仕事に入っていないときの物です。ビデオというものは仕事中や、勉強中に撮るものではなく、遊びに行った時に撮るものです。たとえ困った事があっても、手紙で泣きついたからといってどうなるというのでしょう。仕事に入って最初の頃の、あの言葉の通じないつらさを泣きついたからといって、どうなるものでもありません。

 それに、あの頃とは徐々に状況が変わり、前に書いた専門用語集も少しずつではありますが作っていますし、家畜の動向調査までやることになってしまいました。これは、所長にやるように言われてはじめたのですが、思うように行きません。

 ラオスには統計などないと思ったほうが良いとは聞いていましたが、まったくその通りなのです。過去の資料を出してもらっても、いつどの地方で、どんな家畜が、何の病気で、何頭死んだのか全然分からないのです。資料には、年間死亡数がちゃんと書いてあるのに、じゃあこれはどこの地方で、月別には何頭死んだのか聞くと覚えてないし、もう分からないと言うのです。それじゃあ、誰が知っているのかと聞くと、誰も知らないとの事。これでは、まとめようがありません。

 不思議な事に、これがちゃんと公式記録としてまかり通っているのです。その報告書を読むと、次々と不思議な数字が出てきます。

 たとえば、このサバナケット市内で飼われている犬は100頭となっているのに(そんなわけありません。町のどこに行っても犬がうろうろしています)、狂犬病のワクチンを注射した犬は150頭いた事になっていたりするのです。

 全てがこの調子なのです。

 だからといって腹を立てているのではありません。こんなにいいかげんで、のんびりしている事が逆にうらやましくなってしまいます。仕事となると、うらやましがってばかりもいられませんが、少なくともこれからは、毎月どこで何頭死んだかを教えてくれるそうですから、いつかは資料も出来上がるのではないでしょうか。

 こんな話ばかりで退屈でしょうが、書き始めたついでに、自慢話をひとつ。

 何週間か前の事ですが、注射をするときに使うアルコールが、どうも怪しいなと思い、クーケオさんにビンを見せてくれと言うと、メチルアルコール90%と書いてあり、ビンにはドクロマークが書かれていました。私が、「エチルアルコールでなければ殺菌力がない。メチルでは、殺菌力がないばかりか毒性がある」と言うと、「なぜいけないんだ。ここでは、これを何年も使ってきたんだ」と言うのです。

 なぜメチルがだめで、エチルそれも70%のものが良いのかを理論的に説明すると、やっと分かってくれ、今度からはエチルにすると言っていました。アルコールに対する知識を持っていて良かったと思いました。そして、こういうお金を使わない技術移転と言うものが、協力隊らしくて良いなと、自分で自分を誉めてあげました。

 とまあ、筆の勢いで仕事の事ばかり書いてしまいました。

 この前来た手紙には、いつもうるさい叔母さんからの注文が書いてあり、「誰が読んでもおもしろい話を書きなさい」との事ですが、本当にいつもながら要求がきつすぎます。最初の話では、「週一回、便箋一枚でも良いから手紙を書いてあげなさいね。日記代わりで良いから」と言っていたのではないでしょうか。

 今私は、週2本の紀行文を連載している作家のような状態なのです。新潟とうちの奥さんに、ほぼ毎週手紙を書いており、しかも同じ出来事についてまったく同じように書くわけではありません。そのうえ、次の手紙を書くときに同じ事を書かないように、一応どちらも同じ出来事について触れておくという作業をしているのです。

 どうしてもどちらか一方は、日記的なものになってしまいます。このうえエッセイ風のものをとなると、どちらに何を掲載するか困ってしまいます。

 とはいえ本当は、こちらでの生活も日常となり特に変わった事も起こらなくなってきて、そろそろ手紙もエッセイ風にするしかないのかなと思っていたところだったのです。その矢先にあの手紙。

 佑さんはもう35年も私と付き合っているのに、まだ私の事がわかっていないのですね。

 はっきり行って私はおだてに乗りやすい性格なのです。人に誉められたときに、さらに力を発揮するタイプなのです。手紙に対する批評ではなく、誉め言葉が必要なのです。金の卵を産むニワトリの腹を裂くようなことはしてはいけません。(なんてね)なかなか今回の手紙を書き出せず、困ってしまいました。

 しかし、注文が来るという事は今までの手紙を読んでくれていたという証拠。これからは、母やおばあちゃんだけでなく、他の方達も意識しながら手紙を書く事にします。

 急に話は変わりますが、この前サザエさん一家の研究本を読みました。(日本の本はもちろん売っていませんから、皆の本をまわし読みします。こんな本まで読んでしまいます)

 その本の中で、カツオ君の性格について述べたところがあり、「一般的に姉と妹にはさまれて育った男性は、女性とすぐうちとけ、友好関係を結ぶのがうまい」とありました。まさしくこれは、私の事だと思ってしまいました。佑さんは私にとって姉的存在だったのですね。私に女性の友人が多いのは、佑さんのおかげだったのかもしれないと思ってしまいました。

 もっとも、佑さんの場合は姉的立場と叔母的立場、つまり姉という、親に対して私と同等の立場ではなく、それ以上の超姉的立場から私を見るところがあるように思えます。常に私に対して「この人を甘やかしてはいけない」という観点から発言する事が多いように思えます。

 仮にこの佑さんのような立場の人を、私にとっての批評者と名付けると、おばあちゃん的存在は私にとっての賛同者といった立場の存在であるといえるでしょう。今までの私の人生を振り返ってみると、常にこの批評者と賛同者といった図式の中に身を置いていたような気がします。

 人生のどの場面においても、その両者となるべき人と友好を結び、批評者の存在によって調子に乗りやすい正確に歯止めをかけ、傷ついたときには賛同者によって癒してもらっていたのです。そして私の場合この両者とも女性、しかもあまり若くない女性である場合が多かったのです。

 うちの奥さんは私にとって、どちらかというと批評者的立場にありましたから、この何年間か、私は賛同者のみと友好を結ぶだけで良かったのです。

 たとえば、青森の劇団(七色のスリッパ)におけるA一家(このとき距離的には離れていましたが、うちの奥さんは批評者として機能していました)、神輿の会(葉月会)で私を「お兄ちゃん」と呼ぶ人たちの存在、劇団アリスにおけるT的存在、世田谷の病院に勤めていたときに近所にあったラーメン屋のおばさん(私の人生において、この病院の院長は本当に特殊な存在でした。それまで人に面と向かって嫌われた事などなかったのですから。当時いつも昼休みにラーメン屋のおばさんに励まされていたのです。今考えると、昼休みも外出せず電話番をしていろと言われ、ラーメン屋にいけなくなった事が、あそこを辞めたきっかけの一つになっていたようです)、船橋の病院におけるKさんというおばあさん(Kさんの家に往診に行くと、いつも上がりこんでお茶を飲んでいました)などの人達です。

 訓練中の3ヶ月でさえ、この両者的立場の人達と仲良くしていました。

 ところが、今このラオスにおいてはまだ両者とも存在していません.賛同者となりうる存在はあっても、批評者的存在を探すのは困難です(批判者ではなく)。今はまだ来たばかりで緊張感があるので良いのですが、そのうち慣れてきた時に調子に乗りすぎて何か失敗するのではないかと心配です。

 考える時間がたくさんあるというのはたいしたもので、本1冊読んだだけでこんな事まで考えてしまいました。

 今回はなんだか変な手紙になってしまい、出そうかどうか迷いましたが、こんな事を考えたという記録のために出しておきます。

 もうひとつ記録のために書いておくと、先週日本大使が奥さんと娘さんと3人でサバナケットにやって来て、その出迎えやパーティー、見送りで3日間くらい振り回されました。そのときの模様についても書こうと思っていたのですが書き疲れてきたので今回はこのへんで終わりにします。お元気で。

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