センサバイホテル

1993-05-29

 元気ですか。少し手紙の間隔が開いてしまったかもしれません。実は先週の月曜日に熱を出し、寝こんでしまったのです。5月17日にはじめて仕事に行き、K君(24才。魚の養殖の仕事で、職場では隣の課で働いていてホテルも一緒です)と昼飯を食べ、その時は何ともなかったのですが、仕事が終わってホテルに帰ったとたん2人とも熱が出てしまったのです。

 熱は39.2度まで上がりました。外国で病気をするのは心細いものです。この熱が何から来たものかはっきりしないという心配もありました。(この時点では、K君も同じ症状とは知りませんでした)このまま死んでしまうかもしれないと思い、熱でもうろうとした頭で、遺書でも書こうかと本気で考えてしまいました。

 とりあえず薬を飲みました。夜、S君が心配して部屋に来てくれ、K君の熱が下がったと聞き、少し安心しました。まったく同じ症状ですからこの熱はマラリアなどではなく、昼飯に食べた何かが当たったに違いありません。

 昼に食べたのはミーナム(ラーメン)と、ナムワンという、ココナツミルクに果物を入れて甘くした、日本で言うならミツマメのようなデザートでした。ミーナムは火を通してあるのでまず心配はないと思いますが、怪しいのはナムワンです。

 そう思ったとたん今度はお腹に来て、熱の冷めない身体で何回もトイレに通う事になりました。幸い翌日の昼には平熱に下がりましたが、下痢の方はなかなか収まりません。18日の夜から、解熱剤をやめ、様子を見ることにしました。たった一晩だけの熱だったのに、暑い土地で熱を出すのはかなり体力を消耗するものです。

 翌日の19日くらいにはすっかり回復し、無理すれば仕事に行けない事もなかったのですが、最初の2週間くらいは仕事はないと言われてましたし、職場の人たちが心配して見舞いに来てくれたり、Sさん(29才女性。助産婦さん。とてもしっかりした人です)が来てくれたりで、かえって仕事に行きにくくなり、体力も低下しているなと感じたので、これ幸いと休む事にし、ずっと寝ていました。

 結局職場に行ったのは金曜の午後から。土曜日は午前中だけですから、先週1週間はほとんど寝ていたようなものでした。

 身体の方はすっかり回復しており、土曜の夜はテニスに行き、夜はJICAの人たちがサバナケットに来たので(ラックサムシップハーという日本がお金を出す開発計画があり、その調査に来たのです)歓迎パーティーに招かれご馳走になりました。

 日曜日にはラオ人のお金持ちの家で日本食パーティー、夜は麻雀。(暇はあるし、同じホテルで4人そろってしまうので良くやっています)

 24日には、今月29日で3年間の任期を終えて帰国するI調整員が、新しい調整員のKさんを案内してサバナケットに来るというので、朝から空港に迎えに行き(と言っても自転車で10分くらいですが)、夜は歓迎会と、パーティー続きでした。

 こう書くと、非常に忙しいようですが実はそうでもなく、職場に行っても仕事がないのでかなり暇です。サバナケット県中を回り、時には電気もない村に泊まることになるという話ですが、今日で2週間になるのに出張とやらでまだ責任者の人に会ってもいません。

 誰もかもが何かやって責任を取るのが嫌なのか、とにかくその所長が帰るまでは何も仕事をする気がないようです。唯一仕事と言えるのは、事務所にやって来た犬の診察を2・3頭したのと、買ったばかりの自転車の調子が悪かったので自転車屋に行ったら、そこの犬が病気だったので診てあげたのと、それくらいのものです。

 26日(水)には、手紙でも書こうかと思っていたのに夕方からいきなり停電になり、翌日の昼まで続きました。

 真っ暗な中で特にやることもなく早く寝ましたが、夜11時ごろ大騒ぎをしている声で目がさめました。寝苦しいので、2階に住んでいるベトナム人の団体(映画館を利用した劇場でショーをやっている団体らしいのですが)がギターを持ち出し、路上で歌うわ踊るわの大騒ぎをしていたのです。幸い騒ぎは1時くらいには終わりましたが、その後なかなか眠れず、寝返りばかりうっていました。

 今日は土曜日。職場で手紙を書いています。仕事がないので、専門用語集を作ったりしていますが、そんなふうに書き物ばかりしているので、「プースン(私のラオネーム。高い山と言う意味)は話すのがあまり好きじゃないのか」と言われ困っています。まあ、そのうち誤解も解ける事でしょう。

 明日は、フアンヒンという南に60Kmくらい離れた遺跡に皆で行く予定です。

 この1週間で何とか生活のペースができてきたような気がします。雨季に入り、少し涼しくなってきました。ではお元気で。

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