ラオスより2 お元気ですか。ラオスに来てもう1年以上が過ぎてしまいました。こちらに来たからといって私自身が変わるということはなく、相変わらずのんきなのですが(前以上にのんきになった気もしますが)、こちらにいると色々と考えさせられることも多く、大げさに言えば、ラオスがラオスだけでは生きていけないのと同じように、日本も日本だけではないみたいなことが少しだけわかってきたような気がしています。 ラオス人というのは、本当にのんきで、計画性とか競争心に欠ける面があるため、この国の経済は、中国人やベトナム人が握っています。その割にプライドだけは妙に高く、何か注意するときも、声を荒げると、ただ怒りが通りすぎるのを待つだけで、何も聞いてくれません。この国では、怒ったら負けなのです。本当に素朴で、箱庭のような国なのです。 ラオスは、ちょうど今、私が子供のころの日本のようです。タイとの間に橋もでき、どんどん外国の品物や文化が入ってきています。昨日より今日のほうが発展しているという状態なのです。この1年で本当に車や物が増え、わざわざ日本から送ってもらうようなものも少なくなってきました。新しい建物も増え、私のいる町ではまだですが、首都のビエンチャンに行くと、ミニスカートをはいた女の子も見かけるようになりました。それだけに、これから国際社会に乗り出すラオ人のことが心配でたまりません。だまされることはあっても、だますことがはできない人達なのです。いっそこのまま開発などせずに、ガラスケースに入れて、天然記念物として取っておいたほうが良いのではないかと思ってしまうくらいです。物が入ってくれば、お金も必要になり、今の生活に無理が生じてくるのは目に見えています。 この国は確かに貧乏ですが、今のままならそれなりに食べていくことだけはできます。餓死したラオ人と言うのは聞いたことがありません。アフリカの貧乏と、東南アジアの貧乏は、レベルが違うと言っていた人もいました。でも。こんな風に考えること自体が、先進国と言われる国で育った人間のエゴなのかもしれません。 なんだか話が難しくなってきましたが、のんきな私がこんなことを考えるようになってだけでもこの国に来たかいがあったのかもしれません。 日々の暮らしは大変順調で、これと言って困ることはありません。ラオ語はなかなかうまくなりませんが、周りの人が慣れてくれ分かってくれるので、なんとかなっています。仕事のほうは、完全に犬のお医者さん。日本にいるときとあまり変わりません。昨年の暮れ頃から町に、日本から犬の専門家が来たと言ううわさが流れ、それまでは犬が病気なるとあきらめていた人たちが、治療につれてくるようになったのです。ラオスは、母系社会ですから、往診に行って治療の後は、いわゆるおばさんたちとお茶を飲みながら世間話。あまり協力隊らしくない毎日なのです。 ひとつ残念なことは、友達と言えるようなラオ人ができないことです。子分のようなやつや、仲の良い同僚はいますが、最後の一線でなかなかガードが固く、友達という関係になるのは難しいようです。言葉の問題や、生活水準の違いかもしれませんが、やはりここは村社会であり、よそ者が完全に入り込むのは難しいのかもしれません。 日中気温が40度近かった一番暑い季節が終わり、今は雨期に入って過ごしやすい日が続いています。夏生まれのせいか夏ばてもせず、毎日元気に暮らしています。こちらでの生活も後1年をきりました。元気で帰るのが目標です。それではまた、お元気で。 ●これは、ラオスに行って1年ちょっと経った頃、友人知人に配った手紙です。それなりに現地に受け入れられ、色々考え始めたころのものです。今読み返すと、青くさい気もしますが、協力隊という環境に入ると、なぜか自分が高校生くらいの感覚になってしまうところがあります。その反面、あのときの元気がまた欲しい気もしています。
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1994-06-06