祭にはつきものの屋台のゲーム屋

1993-09-30

 元気ですか。今日は9月30日。今日はお祭りの日らしく、カンタボンがカオノムエップというこちらの餅菓子を持ってきてくれました。竹の葉のようなものに包まれた小さいピラミッド型をしており、中には細かく刻んで甘く味付けしたココナツが入っていました。なかなかおいしい物でした。昼からは、ボートレースもあるそうです。

 でも今日はまだ前夜祭のようなもので、本当のお祭りは来月30日のオークパンサー、雨季の終わりを告げるお祭りです。この日には対岸のタイのムクダハンとの対抗ボートレースが行われます。この日一日だけ、地元の人はパスポートなしに対岸と自由に行き来できるのだそうです。

 先週1週間は、うちの奥さんと会うためにヴィエンチャンに行っていました。結局、久米川のお父さんとお母さんは来られなかったのですが、うちの奥さんでさえ暑さでばてていたくらいですから、無理してこなくて正解だったかもしれません。また、1週間といっても実際使えるのは4日くらいでしたから、やはりサバナケットまで来るのは無理でした。

 結局、最初に予定していたヴィエンチャン北部の村、バンビエン(普通のバスで4時間半も掛かるそうです。もし久米川のご両親が来たら、タクシーを雇うつもりでした)に行くのはやめ、市内の周辺で遊びました。

 タラート(市場)とナム・プー(噴水)広場のビアソット(生ビール)は、たいへん気に入ったようで、毎日のように行きました。ビアソットやラオラオ(焼酎)は、他の隊員にはあまり受けが良くないのですが(私は好きですが)、さすがというか、これも気に入ったようです。

 唯一の遠出は、路線バスに揺られ2時間掛けて(片道350キープ=70円)、ナムグム・ダム湖に行きました。路線バスでターラートという小さな町に行き、そこからさらにトラックバスで15分という道のりでしたが、バスの中で19才の英語を話せるラオ人の女の子とうちの奥さんが仲良くなり、ずっと話していたので退屈する事はありませんでした。

 彼女の名前は、ヴィエンサワン。高校を卒業したばかりで、来年タイの大学に行こうと思っていると言っていました。彼女はヴィエンチャンで生まれ、現在も市内に住んでいるのですが、お父さんの仕事の関係で両親はナムグム湖のすぐそばに住んでおり、そこに遊びに行くところでした。

 彼女の案内で湖に到着し、彼女の友達がやっている店でお昼を食べ、観光船(彼女のお父さんは、観光関係の仕事をしているらしく、普通1時間1人7000キープのところを2時間1人5000キープにしてくれました)に乗り、彼女のご両親の家で昼寝までして帰ってきました。うちの奥さんと彼女は船の中でも、ずっと仲良く話しており、彼女のしていた指輪までもらっていました。

 このような事があると、本当に言葉というものは大切だなと思ってしまいます。彼女のように英語が話せるラオ人というのは稀な存在なのです。

 今回のように、ラオ語がまったく話せないうちの奥さんを案内してみて、つくづくラオ語を話せるようになって良かったと思ってしまいました。物の値段が定価制ではないので、サムローという三輪タクシーに乗るときにも、市場で値引きさせるにもラオ語が必要なのです。バスに乗るときにしてもラオ語が読めないと、どのバスに乗ったら良いかなかなか分からないのです。逆にラオ語が話せると、どこに行くにしても、いざとなったら誰かに聞けばよいという安心感があり、余裕を持って案内する事ができるのです。

 たった1年前までは、ラオ語のラの字さえ知らなかったのに、人間やればできるというか、できなければ生活できない状況になれば、憶えるものなのですね。

 などと偉そうな事を考え、急にラオ語ができるような気になってサバナケットに帰ってみると、単に比較の問題だった事に気づきました。まったくラオ語がわからない人よりは、私のほうがわかるのはあたりまえ。市場やタクシーでの会話なんて、きまり文句。戻ってみれば前と同じ。少し複雑な会話になるとまったく分かりません。

 まあ、あたりまえですよね。そのうち分かるようになるでしょう。べつにあせりはしません。

 急に話は変わります。

 この手紙を書き始めたのは午前中で、昼休みにボートレースを見に行き、午後になってまた書いています。

 ボートレースを見に行ったのは、ここから6kmほど南にあるソンポイという所で、以前牛の往診で行った事のある村でした。始めはカンタボンと2人で行こうといっていたのですが、S君も誘う事になり学校まで誘いに行きました(すぐ隣なのです)。戻ってみると事務長のパンシーや、水産のブンタノンも行くというので、所長に車を借りて出かけました。

 日本ではとてもお目に掛かれないような悪路を30分掛けていくと(往診のときはバイクなので、かえって楽で早かったのですが)、以前来たときには人影がまばらだった村に出店が立ち並び、どこからこんなに人が集まってきたかと思うほどに人が集まり、祭り気分は最高潮に達していました。

 前は同じ部屋で働いていた、クーケオさんに会う事もできました。彼は今この辺りの村の責任者なのです。彼の顔で、役員接待所のようになっている家に上がりこみ、昼飯までご馳走になってしまいました。

 レースの方は、1時に始まる予定だったのに、参加10艘のうち1艘が修理中のためなかなか始まらず、2時からはS君の受け持つ授業があると言うので、レース自体は見ないまま帰って来ました。1艘につき40人くらいの人が乗りこむのですが、乗り込む前のバカ騒ぎがなかなかおもしろく、お祭り好きの血が騒いでしまいました。

 ところで、昨日手紙が届きました。手紙が書けるようになるなんて、たいへんな回復のしかたですね。ちゃんと全部読めました。よっぽどリハビリの先生が良い方だったのですね。また海まで歩いて散歩に行けるなんて、たいしたものです。帰ったら、本当にリハビリの先生にお礼に行かなくてはいけませんね。まだ10年は大丈夫とのこと、たいへん安心しました。医者というのは、自分が患者になるとわがままな人が多いと良く聞きますが、ちゃんと先生の言う事を聞いてがんばってください。

 勉君の結婚の話、びっくりしました。もうそんな年齢になっていたとは…。結婚式に行くことはできませんが「おめでとう」とお伝えください。

 手紙といえば、文太から手紙が来ました。文太のお母さんは、とても元気でしゃきしゃきした人だったのですが、病気になり、栃木県内でも一人というくらいの大手術を受け成功したそうです。あのお母さんの事ですから、私が帰国する頃には、もう山歩きをしているかもしれません。

 その文太の手紙に、時蔵と電話で私について話し合った事が書いてありました。「俺達のところには、私がラオスで毎日楽しく暮らしているという話しか伝わってこない。それはおかしい。自分たちの思っている協力隊のイメージとずいぶん違う。これはひとつ確かめに行ってみるしかない」という話になったのだそうです。そのうちひょっこりとやって来るかもしれません。

 でも、イメージと違うといわれても困ってしまいます。以前にも書きましたが、このラオスでの生活は、なにやら自分自身、子供時代の世界の中で暮らしているような気がするのです。たとえ少しくらい嫌な事があっても、「うん、それもおもしろいな」などと思い、何でも許してしまえるのです。

 確かに、苦労した話のほうが、協力隊というイメージに合うのかもしれませんが、私の場合周りの人々が親切過ぎて、なかなか苦労話になってくれません。

 専門技術を持っているというのはありがたいもので、手術ができたり、多少薬の事を知っている事くらいで、周りの人は尊敬の目で見てくれます。ついついそれに甘えて、ラオ人よりラオ人化してしまい、職場にいる時間もだんだん短くなっています。たとえ寝坊しても、必要なときにはカンタボンが呼びに来るので、それでも良し、という状況になってきています。こんな楽をしていて良いのでしょうか。これを機会に少しは心を改めて、何かやることを探すことにします。

 そろそろ雨季も終わります。夕立のような雨も少なくなり、メコン川の水も、どんどん少なくなってきました。これからが一番過ごしやすい時期です。11月・12月は肌寒いくらいになると聞いています。日本は、涼しいどころかだんだん寒くなる時期、くれぐれも身体に気をつけて。

 今夜町の家々の前には、日本のお盆の迎え火みたいにローソクを立てていました。

 お元気で。

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