シェンカンのジャール平原

1993-08-04

 元気ですか。健康診断、隊員総会、旅行で2週間ほど転々として、3日前にやっとサバナケットに戻ってきました。行くまではあれほどサバナケットを離れたかったのに、「住めば都」とは良く言ったもので、ヴィエンチャンでの最後の2・3日は早くサバナケットに戻りたくてなっていました。やっと自分の部屋に帰ってホッとしています。これが旅行ではなく、その土地で生活するということなのかなどと思ってしまいました。

 日本では思いつけばすぐに移動する事ができるので、そんな事をあまり思ったことがなかったのですが、国内旅行でさえ面倒な手続きが必要な国にいるので、よけい強く感じてしまうのかもしれません。

 サバナケットを離れていた2週間の間も、繋ぎに手紙と葉書を出しておいたのですが届いたでしょうか。葉書の方は良いとしても、手紙の方はタイのウドンタニ-で久しぶりにディスコに行き、2時まで遊び、酔ってはいるのに手紙だけは書かなくてはと思い書いたものです。翌日見てみると、宛名の字は曲がっているし何を書いたのかも思い出せず、出そうかどうか迷ったのですが、ちゃんと糊付けまでしてあったのでそのまま出してしまいました。何を書いたかちょっと心配です。

 ヴィエンチャンから電話した時、母がまた入院したと聞きましたが、リハビリのためとの事なので安心しました。リハビリの先生が大変良い人らしいですね。時蔵からの手紙にも書いてありました。「お前に代わりに、今度おれがお礼に行ってくる」などと書いてありました。まさかそこまでとは思いますが、時蔵の事だから本当に病院まで行ってしまうかもしれません。先生に一言、突然これこれこういう人間が_来るかもしれないと、言っておいたほうが良いかもしれません。

 手紙と言えば、サワン(サバナケットの事。ヴィエンチャンはヴィエン)に戻ると、この2週間の間に15通も手紙が来ていました。日本からだけではなく、協力隊の訓練所での友達からのものも半分くらいありました。世界中から来た、書いた時期もバラバラな手紙の山です。こういうのを嬉しい悲鳴というのでしょうか。帰った日から3日間ずっと手紙の返事を書いています。

 簡単に葉書か何かで済ませば良いのでしょうが、せっかく長文の手紙をくれたのに、こちらは絵葉書一枚というわけにも行きません。それぞれの人にそれぞれの思い入れがあるので、全員に同じ事を書くわけにもいきません。

 それでもやっと半分くらいの人に返事が書けたので、後もう少しです。今週は手紙を書くだけで1週間が終わりそうです。その間にまた手紙が来たらどうしましょう。ずっとこのままのペースで手紙を書いていたら、それだけで2年間が終わりそうです。でもまあ、今回はたまたま時期が重なっただけなのでしょう。出してから1ヶ月以上かかって届く国もあるのですから。

 世界中に友達が散らばっているという感覚は、本当におもしろいものです。これだけでも協力隊に参加した価値があったかもしれません。

 地球の裏側のコスタリカからの手紙で、『ヨルダンに行ったAさんがどうこうしたという話を聞いたけど本当ですか?』という手紙がラオスにいる私に1ヶ月遅れで届いたりするのですから変なものです。友人がいるというだけで、今まだ知らなかった国が身近に感じられ、手紙を読むと各国の違いが分かったりします。

 たとえば、ヨルダンに行ったTさん(31才。日産に勤め、日産の高校に行ったためか、頭が良く物知りなのに英語だけがポッカリと抜けていたのです。研修所で先生に『Do you understand?』と聞かれ、『stand up』と間違えて立ってしまったという逸話の持ち主。皆この人が好きで、彼を中心になんとなく友達の輪ができていました。彼の方も酔うと冗談で「いつでも言って下さい。俺、稲垣さんのためなら死ねますから」と言ってくれていました。よく手紙が来ます。)や、Kさん(27才高校教師。温厚で生徒思い。学校では毎週、生徒あてに自分で作った新聞を配っていたそうです。研修所に来ても作っていたので、私も少し手伝いました。)の手紙によると、アラブ人の女性と話す機会はめったになく、職場も男ばかりなので、気づくと1ヶ月も女性と話していなかったなんて事があるそうです。

 ラオスではそんな事はありませんが、男は男同士、女は女同士というようなところはあります。T(同期で唯一の女性。ヴィエンチャンのセタティラート病院の臨床検査技師。とても良い子で、私にもなついてくれています。)などは、職場の周りでモテまくっているようです。(女性にですが…)職場の近くの食堂に行けば、座っただけでうまくて栄養満点のT定食が出て来るし、コーヒーを飲みに行けば店の女の子が貢物やお菓子をくれるのだそうです。

 私も相変わらずカンタボン君に好かれています。私がレイバンのサングラスを掛けていたら、自分もどこからか同じようなものを買ってきて掛けていました。今日も、メコン川を眺めるために、屋上の建物の屋根に登る梯子が欲しいと言ったら、にこにこしながらやってきました。製剤所に木を買いにつれていってくれ、結局全部作ってくれました。Tと逆になればもっと良いのですが、世の中そううまくは行きません、

 職場に女性が2人いて話をしたりもしますが、2人ともそう若い女性ではありません。唯一お話する若い女の子といえば、昼休みに行くカオピヤック屋の女の子です。カオピヤックというのは、日本のうどんのようなものですが、その店では17歳くらいの可愛いい女の子が作っていて、味も薄味で毎日食べても飽きません。

 こちらの女の子は家では本当に良く働きます。(職場で懸命に働くラオ人は、あまり見かけませんが。)その子も本当は高校生らしいのですが、店に行くといつも親は奥でテレビを見ているのにその子一人が働いています。その姿がけなげで気に入っています。はじめはニコリともしなかったのですが、家から来た手紙に入っていた写真をきっかけに話すようになり、今では行くとニコニコ笑って話し掛けてきます。ついつい毎日行くようになりました。しかし、別にやましい気持ちはないので、安心してください。

 そういえば、うちの奥さんが9月に夏休みをとってラオスに来るそうです。その前に新潟にも顔を出すと言っていました。ラオスにいるのは4日間くらいになりそうなので、サワンまでは来られないと思います。ヴィエンチャンで会う事になるでしょう。

 嬉しくて職場でふれ回ったら皆喜んでくれ、所長も「良かった良かった」と言っていますので、休みは簡単にもらえそうです。ラオ人は一人でいるのが大嫌いなので、普段から、私がちょっと考え事をしていると、「寂しくないか」とか、「奥さんのことを考えているのか」と聞かれます。親切過ぎるほど親切な人達なのです。

 ところで職場と言えば、ヴィエンチャンから帰ってみたら同僚のクーケオさんが転勤になりいなくなっていました。突然の転勤はここでは日常茶飯事で、少し田舎の方に出世して行ったとの事でした。喜ばしい事なのかもしれませんが、私にとってはショックです。彼は現場の責任者のような立場にあり、私のことも認めてくれていたのです。例のアルコールの話も彼としていたのですが、これでまた一からになるかもしれません。でも、今度のパートナーのスパサイは頭の切れるやつなのでたぶん大丈夫でしょう。彼は30才でブルガリア帰り、ラオ人にしてはシャイなところがあり自分から寄って来る事はありませんが、何か聞くと分かり易く丁寧に教えてくれます。

 さて、せっかく旅行に行ったのですから、少しシェンカンについて書きましょう。

 シェンカン県の中心ポンサワンは、ヴィエンチャンの北300Kmくらいにあります。ラオスに鉄道はありませんし、車で行くのは無理なので、20人乗りくらいの小さな飛行機で1時間。飛行機はあまり高いところを飛ばないので、下の景色が良く見えます。人工的なものは何もない山を越えると、まるで緑の絨毯のような高原が広がります。その絨毯にまるで虫食いの穴のような穴が、無数に開いています。それらは全て爆弾の跡なのです。ここはベトナム戦争の時、激戦地だったのです。よくこんなきれいな所で戦争なんかしたものです。

 ラオスでは旅行をするのが大変です。国内旅行でさえ『レセパセ』という許可書が必要で、一人でフラリと旅行するわけにはいきません。今回も、S君とSさん(サワンの助産婦さん)と私の3人でシェンカンのN(23才食用作物。若いくせにおじさんぽい奴。仲良くしています。どうも一回りくらい下の奴と仲良くなる事が多いようです。カンタボンといい、新潟の望といい。精神年齢が合うのでしょうか。)を訪ねるということで、レセパセをもらいました。

 シェンカンは水道もなく井戸水と雨水、電気も1日に3時間(午後6:45〜9:45)しか来ませんが、涼しくてとても気候の良いところです。(それでもNは暑がっていましたが)

 1日目は、ポンサワンの郊外にあるジャ-ル平原に行きました。ここには大きな石でできたポットが200個くらい散らばっています。酒作りに使われたという説もありますが、本当のところは誰にも分かりません。高原を吹き抜ける風はとても爽やかでした。神秘的で静かな良いところでした。

 2日目は、70kmくらい離れたところにある温泉に、タクシーで行きました。サワンなら10kmくらい郊外に行くと未舗装になるのに、ずっと舗装してあります。そう、ここはベトナムに続くアヘンの道なのです。(こちらの山岳民族は貧しく、焼畑をしたり、アヘンを作って生活しています)

 目的地までは3時間近く山道を行くのです。途中色々な山岳民族の村を抜けて行き、民俗学や植物に詳しいNが色々説明してくれたので、飽きるということはありませんでした。

 到着した温泉は普通のバスタブにお湯が出てくるだけのものでしたが、温泉は温泉。3時間のドライブで埃まみれになった者にとっては(エアコンなど付いてないから窓を開けて来たのです)、ありがたいものでした。もっとも、帰りの3時間でまた埃まみれになり、帰ってから水浴びが必要でしたが…。

 ポンサワンに戻ると、Nの知り合いのラオ人の結婚式への招待状が、全員あてに届いていました。初めてラオ人の結婚式に出る事になりました。結婚式といっても儀式的な事は自分達だけでやるらしく、儀式らしい儀式は入り口で主役の2人にラオラオ(ラオスの酒40度くらいの蒸留酒)をついでもらったくらいで、後は勝手に飲み食いして、勝手に帰るだけのものでした。それでも300人くらいが集まる盛大なものでした。式場の中でNは色々な人から声を掛けられ、地元に良く溶け込んでいる事を感じさせました。たった一人の日本人です。「お前のような図太い奴の心配をする奴はいないよ」と憎まれ口をたたきながらも少し心配していた私は、ホッと一安心しました。

 翌日は、4時間も遅れた飛行機でヴィエンチャンへ。「誰か来るとめんどくさいから、ヴィエンチャンの皆にはシェンカンはつまらない所だったと言ってくださいね」とNが言っていました。意地悪な私は、ビデオを見せながら、シェンカンは本当に良いところだと大宣伝しておきました。

 旅行の後、ヴィエンチャンで遊んでばかりいたわけではありません。ヴィエンチャンの郊外のナボン農学校に、国連が作ったラオ語による専門書が置いてあると聞いたので、1日がかりで行ってきました。さすが国連、英語-ラオ語の獣医学用語集などもありました。お金が苦しくなってきていたのですが、10冊以上も買ってしまいました。(それでも日本円なら3000円くらいですが。)

昔、森田のおじさんが言っていた「本との出会いは貴重なものだから、お金を惜しんじゃ行けないよ」という言葉を思い出していました。とにかくサワンには本がないので、良く読めないにもかかわらず他にも本を買いこみ、帰りの荷物は、持ち上がらないほど重くなってしまいました。

 こんなに長く書くつもりはなかったのですが、結構長い手紙になってしまいました。さすがに右手が痛くなってきたので、このへんでやめます。お元気で。

 

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