タロウのこと

 私がタロウを始めて見たのは、10月1日の事でした。前日の9月30日はラオスのお祭、日本で言えばお彼岸のような日にあたります。日中の猛暑がやや和らいだ夕方、涼しさを求めて町に出ると、家々の軒先にローソクが灯されていました。その前日までの暑さがうそのような、涼しい日のことでした。

 タロウは、生まれてまだ3日目の子牛。もちろんその時はまだ、名前などついていませんでした。

「奇形の子牛が生まれた。肛門がないんだ」 と言う連絡があり、さっそく往診に行きました。診てみると、確かに肛門がありません。本来あるべき位置に何もなく、ツルンとしていました。このままほっておけば、確実に死んでしまいます。さっそく午後から手術をすることになりました。

 私は大学を卒業以来ずっと小動物専門でやってきましたから、もちろん子牛の肛門形成手術なんてやったことがありませんでした。

「難しい手術になるかもしれないよ」 と言うと、周りのラオ人達は、「大丈夫、大丈夫。やるだけやって、ダメなら食べれば良いのさ。子牛の肉はうまいからな」 と、もう半分宴会気分です。

 もちろん手術のやり方は知っていました。肛門が塞がっているだけなら、穴をあけて縫うだけの比較的簡単な手術です。でも、もし…。頭に浮かんだ最悪のケースは打ち消し、良いほうに考えることにしました。

 さて、やるとなったら手術器具集めです。その頃、私のいたサバナケット県農林局獣医課という所には、まったくと言って良いほど器具がありませんでした。幸い同僚のラオ人が、個人的にいくつか器具を持っていたので、メス、ハサミ、2本の鉗子、1本きりの手術針がそろいました。抗生物質と局所麻酔薬は事務所にありました。糸もなんとか手に入り、一応手術の用意が整いました。

 午後2時半手術開始。消毒液に器具を漬け、手を洗います。暇なのか大勢の人が集まって来て、子牛を農家の庭先にある古いベッドの上に左側を下にして押さえつけています。本来なら肛門があるべき場所に局所麻酔の注射をし、毛を剃り、ヨードチンキを塗りました。

 メスで皮膚を切開し、ハサミで少しずつ広げていきます。すぐに直腸があると思っていました。ところが、ないのです。指を入れて探ると骨盤にも奇形があり、直腸が通るべきところが極端に狭く、指1本がやっと通るくらいしかありません。もっと奥を探ると、やっと指が届くくらいのところに直腸の端のようなものがありました。直腸がここまでしか来ていないのです。ここからのアプローチは無理です。他からのアプローチを考えなければなりません。傷口を一度閉じ、考えました。もうすでに周りには、あきらめムードが漂っています。

 臍ヘルニアもあることだし、ここから開けて、ついでにヘルニアも治すことにしました。早速消毒し、切開しました。しかし、ここからではあまりに遠過ぎて、直腸を引っ張り出すことはできませんでした。回りはもう完全にあきらめています。今にも焼肉パーティーの準備を始めそうな雰囲気です。ここでやめたら、この子牛は本当に今日の夕食になってしまいます。

 今度は右側下腹部を開けることにしました。切開し、腸を引き出し、手を入れます。なんとか直腸の端まで届きましたが、回りとの癒着が激しいのです。先ほど仮に閉じた肛門の位置の傷を再び開き、そちらからも指を入れ、両側から指先で少しずつ剥がしていきます。なかなか取れません。汗が流れます。『これさえ出せば、子牛は助かる』、そう信じて続けました。

 数分後、やっと腸の端を引っ張り出すことができました。先端は完全に閉じ、袋状になっています。本来の位置に持っていくのは無理なので、先端を切り取り、右下腹部に開けた傷に開口するように縫い付けました。結局3時間もかかる手術になってしまいました。子牛は、衰弱が激しくどうなるか分かりませんが、一応手術は完了しました。周りの人たちも助かるかどうか半信半疑でした。

 次の日様子を見に行くと、子牛はちゃんと立ち上がり母牛の乳を飲んでいました。ちょっとでも母牛が離れると、ミューミュー鳴いて母牛を呼びます。飼主のおばさんが名前を付けてくれと言うので、『タロウ』と名づけました。私が「タロウ」と呼ぶと、周りに集まっていた子供たちも喜んで、「タロウ、タロウ」と呼びました。まるで夢の中のような一時でした。

 その1週間後様子を見に行くと、タロウは死んでいました。手術後タロウは元気で母牛の乳もよく飲み、便も少しづつ出ていたのですが、6日目くらいから元気がなくなり、ちょうど1週間目に死んでしまったのです。死因は色々考えられますが、タロウの場合腸の運動自体も弱く、うまく便を出せなかったことが原因だったようです。

 タロウのなきがらのそばで立ち尽くしていると、飼主のおばさんがそばに来て言いました。

「もし手術してくれなかったら、こんなに長く生きられなかったんだから、気にしないで。でもこうやって、かわいがって名前まで付けたら、もう食べるわけにはいかないね。埋めてやることにするさ…」

 ひょっとすると、私がしたことは、この国の人たちにとっては余計なことだったのかもしれません。

 母牛を呼ぶタロウの声が、今でも耳の中に残っています。

 

1994-10-16

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