プロジェクト La Gatta

−○たがいににいがた○〜

W杯ウェルカムパレードで、バリアフリーのサンバパレードを−

 

「子供や大人、障害者や健常者が一緒に参加出来るサンバチームを作りたい…」 その挑戦はたった一人の男の思いから始まった。

男の名前はT。東京で役者を目指していたころ、障害者の芝居に出合った。純粋に演劇を楽しむ笑顔に、心を動かされた。他の人にも輝ける舞台を提供したいと思うようになった。

家業を継ぐため一昨年、新潟に帰郷。昨年、誰もが参加できるW杯イベントとして、新潟市がパレードを計画していると知った。

「これだ」 Tは思った。ワールドカップ−サンバパレード−障害者の人たち、Tの頭の中でその3っつが結びついた。

Tに出来る事はとにかく人に会ってみる事だけだった。とびこみで障害者施設を回り、自分の思いを語った。

ワークセンターHのAは驚いた。そしてしだいに初対面のTの言葉に動かされた。翌日、Aはバンド仲間でH福祉園のIにTの話しをした。「昨日うちに面白い人が来ました。そちらを紹介しましたから、話を聞いてあげてください」

 

A:「本当に驚きました。いきなりやって来た人が自分の思いを語り始めたのですから…。始めはちょっと警戒していました。でも、話を聞くうちにだんだん引き込まれてしまったんですよ」

 

サンバパレードという目標はあったものの、T自信でさえサンバについて何も知らなかったのです。20015月、Tは劇団時代の知り合いの紹介でプロのパーカッショニストを招き、サンバのワークショップを開きます。

 

友人知人に声を掛け、20人近くが集まった。そこにはAやIも職場の職員数名と来ていた。サンバは面白かった。とりあえず2週間に1回練習をする事になった。

プロジェクトは動き始めた…。

 

8月には施設関係の集まり「サマーフェスティバル」でサンバの演奏をした。サンバを紹介する寸劇を演じたり、空き缶を利用した楽器「ガンザ」の作り方を教えたりもした。集まった人たちの笑顔がまぶしかった。

友人のKに依頼し、「佐渡おけさ」をサンバ風にアレンジしたオリジナル曲もできあがった。メロディーのパートはHが弾くキーボードと、Tが高校時代ブラスバンド部だった時の先輩、Mの吹く縦笛だった。ブラス隊が欲しかった…。

11月には福祉祭やI小学校の文化祭で演奏した。小学校の文化祭には、Sの率いるクラブの子供たちも参加した。

イベント前の練習には多少人も集まったが、イベントが終了すると練習に来る人は、決まった何人かの人間だけになった。練習所を借りたのに56人しか来ない日もあった。

「こんな状態でパレードなんて出来るのだろうか…」誰もが不安を抱いていた。とにかく人数が欲しかった。一般募集をするにはまだ時期が早すぎた。友人知人を引き入れるしかなかった。

 

ここでスタジオに代表のTさんをお招きしました。Tさんどうぞ。

「まず、このら・ガッタという名前はどういう意味なのですか」

「はい、ガッタは新潟のガタからとりました。らの意味は…子供が生まれた最初に泣く泣き声はドレミでいうとラの音なのだそうです。ですから、まあ始めからやるというような意味でして…」

「なるほど。そういう意味があったのですね。ところでTさんは20年ほど前に新潟のみこしの会を立ち上げたそうですね」

「はい。その時も友人56人と始めたのですが、どんどん人数が増えて、100人以上になり、祭に参加出来る事になりました。その時の事が頭にあったものですから、今回も何とかなるだろうと…始めは甘く考えていました。健常者、障害者1000人集めて、1000人サンバというのをうたい文句にしようと思っていたのですから…」

「ところがなかなか人が集まらなかったのですね」

「はい」

「一般募集をしなかったのはなぜですか」

「それだけの体制が整っていなかったんです。サンバについては素人の集団だったので、まず自分たちの技術を上げないと…。練習を見に来てもらっても、あきれて帰られたんじゃしょうがないですし…。現にそんな事もありましたし…」

「なるほど…」

昨年の12月。あることをきっかけにプロジェクトは次の段階に進みます。

 

12月のある日、NがOとYを練習所にしていた「リード」に招いた。二人ともNが高校時代ブラスバンド部だった時の先輩だった。練習後のミーティングでOが言った。

「ここには組織も計画も何も無いんですか」

皆、押黙った。何も無かったのだ。

2週間に1度集まって、ただひたすらリズムとオリジナル曲の練習をしているだけの日々だった。色々な人が見学に来たが、もう一度来る事は無かった。「あなたたちがやっているのはサンバじゃないし…」そんな事も言われた。

その日Iもある決意を固めていた。このままではパレードはできない…。始めてやって来たOが、Iが言いたかった事を代弁してくれていた。

「すみません。いきなりやって来た奴が爆弾を投げたみたいなことを言ってしまって…」Oが言った。

「いえ。とんでもない」誰かが言った。本当は皆が何とかしなくてはいけないと思っていたのだ。

年が明ける頃には、組織図、企画書などが出来上がった。役割分担が決まり、少しは組織らしくなった。2月中にポスターやチラシを作り、3月から一般参加者を募集する事になった。

C高校のダンス部が参加してくれるという朗報も入った。ダンスの専門家Mも参加してくれる事になった。SもI小学校の子供たちを引き連れて参加してくれることになった。

 

こうしてプロジェクトは明るい方向へ進み始めました。ところが、思いもかけぬ問題が次々とプロジェクトに襲い掛かります。

 

2月の末にはポスターとチラシの原案が出来た。市の担当者の了解も取っていたはずだった。後は印刷するだけだった。ところが、いきなり作り直してくれと言われた。2月始めから一般募集をするはずだったが、大幅に遅れてしまった。C高校のダンス部も他のイベントに参加する事になってしまった。一般募集を始めても、ほとんど反応は無かった。

2週間に1回は練習にMが来てくれていた。せっかく来てくれたのに、まだダンスチームは無かった。

リズム隊の人間がダンスを教わった。当日演奏しながら踊るわけにはいかない。自分たちが踊りを習っても当日踊るわけではなかった。「当日誰が踊るんだ」疑問を抱きながらも踊った。

 

「いろいろな問題が出てきたわけですね」

「はい。当時ブラス隊とは別に練習していましたから、本当に当日ブラス隊が来てくれるのかどうかとか、衣装はどうするかとか、ブラス隊を載せるトラックはどうするかとか、音響はどうするのかとか…」

「そして、Tさん自身もやめようと思われたことがあったのですよね」

「はい」

 

Tは悩んでいた。家の事情や仕事の事情が重なり、いっぱいいっぱいの状況だった。そしてついに言った。「もうやめようと思う。今ならやめられる」

しかし、やめられるわけが無かった。もうT一人の夢ではなくなっていたのだ。結局Tは、実際の仕事からは身を引き、代表の名前を残す事になった。

 

Mは迷っていた。Tに誘われて参加したものの、自分の立場を決めかねていた。「仕事」として振り付け担当で参加するだけでよいのか悩んでいたのだった。

Tも悩んでいた。ダンスを仕事としているMに対して「お願いします」の一言がどうしても言えなかった。しかし、事態は切迫していた…。ある日ついにTは言った。「お願いします」

ちょうどその頃、Nの従兄妹でヒップホップをやっているAが仲間を引き連れて参加してくれることになり、N大学の人たちも参加してくれることになった。ダンスチームが結成された。

録音の日には10人以上のブラス隊が駆けつけてくれた。

 

本番まで2ヶ月を切った頃からどんどん参加人数が増え、事務局は名簿を何回も作り直さなくてはいけませんでした。

 

本番の1週間前の5月26日。最後の練習日だった。参加人数は100人を超えた。テレビや新聞、いろいろな地元のマスコミが取材に来てくれた。衣装担当のMmも、Mの友人Sも一生懸命衣装をそろえた。

本番前の1週間。練習は終わったものの、各々の担当者は動いていた。ダンス隊は屋外で特訓をした。信濃川の河原で一人トランペットの練習をしていたKさんのおかげで借りられたトラックは、トラック担当のNの手で飾られた。

心配なのは当日の天気だけだった。もし雨なら参加人数を40人に絞らなくてはならず、トラックも参加できない事になっていた。そんな事は出来るはずがなかった。

 

6月2日当日。前日の雨が嘘のように晴れわたった。Tは200人を超えるパレードの一番後方にいた。先頭にはブラス隊を載せたトラック、その後にリズム隊、子供たちとお母さんチーム。そして各施設ごとに障害者施設の人たちが続いていた。車椅子の人もいた。バンド隊のリズムに乗せて全員が踊っていた。

 

Tさんは一番後ろにいたのですか」

「はい。そこにしかいられなかったし、そこが自分の居場所だと思ったんです」

「なるほど…。ところで、今後どうやっていこうとお考えですか…」

「わかりません。とにかく今はやっと終わったという気持ちです」

 

たった一人の男の夢が皆の夢となり、そして200人の夢となった。「ら・ガッタ」はウェルカムパレードの部門賞と最優秀賞を獲得した。

 

La Gatta ホームページ

これは一応ノンフィクションですが、

書いているうちにかなりフィクションが入り込んでしまいました。

全てが事実というわけではありません。

2002-06-14

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