これは高校の同窓会誌のために書いた原稿です
ラオスの匂い 「生徒会長をやらないか。実際の仕事は、副会長になって俺が全部やるから…」 友人のTにそう言われたのは、高校2年生の時でした。 私が覚えている唯一の仕事は、文化祭で各クラスが使う机と椅子の数を確認することでした。 「すみません。生徒会長ですが、文化祭で使う机と椅子の数の確認に来ました…」 同級生で私が生徒会長だったことを覚えている人は少ないようです。
大学卒業後、2年ほどブラブラしてから、ようやく動物病院の代診になりました。そして35歳の時に青年海外協力隊員として、ラオスに行くことになりました。行くきっかけになったのは、妻の「いつ行くの。本当に行きたいなら行った方が良いよ」 という一言でした。何回か説明会には行ったことはあったのですが、なかなか決心がつかないでいたのです。 派遣前には3ヶ月間、語学の合宿訓練があります。始めは模様にしか見えなかったラオ語だったのに、3ヶ月後には読み書きし、話ができるようになっていたのですから驚きです。人間やればできるものです。一生のうちであれほど勉強したことはありません。 ラオスは、まるで子供時代の新潟のような、ところでした。私のいた町は車も少なく、街角では子供が遊び、おばさん達がいつも立ち話をしていました。昭和30年代の下本町のように、いつ紙芝居屋さんが現れてもおかしくないようなところでした。地元の人たちも大変のんびりした善人が多く、とても親切にしてくれました。 主な仕事は水牛や牛の予防注射や犬の狂犬病予防のはずでした。ところが、犬猫を診られる獣医が来たと言う話が町中に伝わり、40度の暑さの中を50CCのバイクで1日10件以上も往診に回るなんてこともありました。 器具や薬もあまりなく、安全剃刀と鉗子1本と市場から買って来たタコ糸で、牛の帝王切開手術をやる羽目になったこともありました。日本でならたいしたことない私でも、その町では第1人者、困った事があっても誰にも聞けません。自分で工夫して、何とかするしかないのです。おかげで、お金や物がなくても何とかなるという自信だけはついたような気がします。
平成9年に本町通13番町の自宅で、動物病院を開業しました。実にさまざまな人がやって来ます。ふと待合室を見ると、芸者さんと、その筋の方と、オカマさんが笑いながらお互いの犬の話をしているなんてこともあります。始めての人同士でも、まるで何年来の知り合いのような口のきき方ができる土地柄は今でも変わりません。 犬や猫も、人間と共存してのんびりと生きているように感じます。下町には、ラオスと同じ匂いが流れています。
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2000-06-02