ビエンチャンのタートルワン

1993-04-15

 元気ですか。今日は4月12日日曜日。8日にヴィエンチャンに着き、まだ4日しか経っていないのに、ずいぶん時間が経ったような気がします。

 日中はさすがに暑く、35度くらいまで気温が上がりますが、乾季のせいかカラッとしており、日陰にはいればそう過ごしにくいということはありません。

 食事はすべて外食ですが、今のところすべて口にあい、特にこれがだめというものはありません。味付けが辛いものもありますが辛すぎるということもなく、あっさりとした味のものもあります。ベトナムうどんや、ラーメンに似たそば、肉と野菜を炒めた料理など、どれもおいしいものばかりです。この分では太って帰ることになりそうです。

 フランスの影響のせいか、フランスパンもおいしく、朝食は事務所の隣の掘建て小屋のような店で、フランスパンとコーヒーですませています。値段は、日本に比べれば信じられないくらい安いものです。パンとコーヒーで150キープ(×0.2円くらいですから30円)。うどんが100円くらい、チャーハンが180円、街角で売っている肉まんが1個20円、ラオスビールが220円、タバコは1箱60円くらいです。ただし、輸入品は日本と同じくらいですから、こちらではかなり高くつきます。

 この4日間何をしていたのか少し書いておきます。

 8日の昼、ヴィエンチャンに到着しました。ここの空港は、とても国際空港とは思えないもので、滑走路の脇は草ボウボウ。空港のビル?も小さく、外に出ると、なんと空港の敷地内なのにニワトリが遊んでいるというものでした。仕事の関係省庁の人や、ヴィエンチャンに住んでいる隊員など多数出迎えに来ており、バスに乗り込み、事務所へと向かいました。

 説明会は2時半からとのことなので、さっそく同じ町に行くS君(29才。自動車整備の先生として、サバナケットに行きます。ずっとバイトをしながら、日本の色々なところを旅していた人で、さっぱりした性格の良いやつです。身長は185cmですから、ラオスでは大男です。一緒にラオスに来た9人の中では、1番仲が良く、彼もギターを持ってきているのでサバナケットでバンドを組む予定です)や、T君(22才。一番若く、大学出たて。ラオスの一番南、パクセーに野菜作りを教えに行きます。声が大きく陽気です)と事務所の周りを散歩し、掘建て小屋のような店で、ベトナムうどんを食べました。

 2時半くらいから(こちらでは、12時から2時まで昼休み)説明会がありました。(事務所のHさんによる説明会。このHさんという人は、32才の女性で、もう2年半もラオスにいます。ここの所長は、Tさんですが、出張中でした)

 夜は、ヴィエンチャン隊員のMさん(30才くらいの男性。水源調査)の行きつけの焼き飯屋に行きました。

 9日は各省庁への挨拶回り。暑いのにちゃんとスーツを着て、全員で行きました。副大臣宅へも訪問し、次の日の新聞(といっても紙1枚のペラペラなもの)の、一面記事になりました。

 夜は、Cさん(レントゲン技師の女性)に聞いたベトナム料理屋で夕飯を食べた後、S君と自転車の2人乗りで、フラフラと夜の町を散策しました。夜のほうが、昼よりもにぎわっていましたが、特に危険そうな感じはありませんでした。

 電話局に行き国際電話をしてみましたが、つながりませんでした。回線が少ないので、運が良くないとつながらないようです。しかし、昨日の夜、T君(ラオス語教室のリーダーといっているが、実は雑用係。電機学校の先生をやるだけあって、かなりの電機製品オタク)のところに日本から電話が掛かってきていたので、まったくつながらないわけではなさそうです。

 5月11日くらいまではこの事務所の2階で生活していますので、なにかあったら電話してみてください。時差は日本時間マイナス2時間。直接つながるはずです。事務所の所長は同姓なので、フルネームでお願いします。

 10日の午前中は、こちらでのラオス語の先生、ケーソン先生が来て顔合わせ。40才くらいの女性で、よさそうな人でした。

 4月13日から16日までは、ピーマイというラオスの正月で、仕事はすべて休み。ラオス語の授業も19日の月曜から始まります。この手紙も(実は途中で書くのをやめたので、今は4月13日の昼2時ですが)、来週にならないと出せません。

 話を続けます。

 そのラオス語の先生が帰った後、S君、T、N(23才。食用作物で、ラオスの北にあるシェンクアンへ一人で行きます。シェンクアンは、水道はなく、電気も日に2〜3時間しかこないそうです。高地にあるので、寒いところようで、他に日本人はいませんが、彼は年に似合わず落ち着いており、小柄だが外見はどう見ても30代に見えるやつなので、多分一人でも大丈夫でしょう)、T(23才女性。臨床検査技師。外見は派手な大阪のお姉ちゃんなのだが、本当はおとなしい良い子)と、タラートサオ(朝市という意味)へ行きました。

 ここはかなり大きいショッピングセンターで、ありとあらゆる物が売っています。中国製、ロシア製、タイ製等のものが多いのですが、メーカーさえ気にしなければ、テレビ、ラジオ、ビデオから日用雑貨、野菜や肉、なんでも手に入りますし、日本よりかなり安いようでした。

 ここからまた手紙を書いている日にちが変わります。今は15日の夕方です。ラオ正月(ピーマイ)の真っ最中です。

 どうせあせって手紙を書いても、このピーマイのため食べ物屋以外はすべて休み。市内のどこに出かけても、水や、白い粉(メリケン粉)、ベタベタと服にくっつく植物の種のようなもの(何なのかわかりませんが、カエルの卵のようにぶよぶよしており、色々な色に着色してある)を持った子供や大人がいて、人が通るたびに水をかけたり、粉やその種のようなものを振り掛けるため、一回りして帰ってくるとビショビショになってしまいます。

 ずいぶん長い手紙になってきたので、11日の日曜日以降のことを軽く書いて、この手紙は終わりにしたいと思います。

 とにかく、こちらに来てすぐピーマイになってしまったので、休みが続き、まだ観光客気分のままです。

 11日は、5人くらいでタートルワン(ヴィエンチャンで一番大きい寺)を見学した後、メコン川を見に行きました。メコン川は乾季のため、土手から岸辺まで500mくらい歩かなければなりませんでした。雨季になると土手を超えることもあるそうなので、かなり大きな川なのでしょうが、今は水も少なく、石を投げれば対岸のタイに届きそうなほどでした。

 12日はヴィエンチャンで働く5人の隊員の職場回りに、全員で行きました。バス会社、学校、病院を回りましたが、どこも設備が古く、特に病院のレントゲンの器械は30年以上経っているのではないかと思うほど古いものでした。絶対こんな病院に入院したくないと思いました。(病気になったら、タイの病院に運ばれることになっています)

 夜は、運輸省のピーマイパーティーの前夜祭に招待され、バーシー(幸運を願って手首に糸を巻きあう儀式)や、ランボンダンスをやりましたが、あまり盛り上がらないままなので、早めに帰りました。

 13日は午後から事務所のHさんによるミーティング。外に飯を食べに行ったら水をかけられたくらいで、他には行きませんでした。

 14日は佐々木君と2人で観光。パリの凱旋門に似せたというアヌサワリー(独立記念塔。かなりラオス風にアレンジされています)に行った後、メトゥーさんというおばあさんを訪ねました。このおばあさんの家には、11日にもTと行ったことがありました。東京に住むSさんという人(この人の奥さんはラオ人で、10年間ラオスに住み、4年前に日本に戻った人。昔このおばあさんに世話になったとかで、届け物を頼まれていました)に、おばあさんの元気な姿を見せようと思い、写真を撮りに行ったのです。

 そして今日15日は、こちらに住む隊員二人と、Yさん(32才男性。橋の設計屋さん。ものすごくまじめな人)の4人で、タートルワンの水かけ祭り(タートルワンの周りの柱には1体づつ石仏が埋めこまれており、それに水をかけて回る)を見に行った後、昼寝をし、この手紙を書いています。

 思いつくままに何日にも渡って手紙を書いたので、こんな手紙になりましたが、今回はこれでやめることにします。それではまた。

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