クリストファーのこと

 

私が協力隊員としてラオスに行ったのは、平成5年の4月でした。始めの1ヶ月間は、首都のビエンチャンでの語学研修でした。

 

その語学研修で、私達9名の新人隊員とスウェーデン人のクリストファーは一緒のクラスでした。彼も酒好きだったので、良く一緒に飲みに行き、へタなラオ語で話し合いました。

 

彼はシダーというスウェーデンのボランティア団体の一員で、語学研修の終了後は村落開発普及員として山奥の村に住んでいました。

 

 クリストファーはその翌年の1月に、マラリアのために亡くなりました。

 

 当時私はビエンチャンから南に約300キロ離れたサバナケットという街にいました。当時ラオスの電話網は未発達で、ビエンチャンの協力隊事務所と無線で定期交信していました。

 

その無線連絡でクリストファーのお母さんがラオスに来たのを知ったのは、その年の5月のことでした。ビエンチャンの同期隊員の一人が付き添い、クリストファーの任地だった村に向かったというのです。

 

私と同期隊員のS君は、どうしても彼のお母さんに会いたいと思いました。

 

クリストファーの任地だった村はサバナケットからさらに200キロほど南のパクセーという町からさらに奥に入ったところにありました。

 

パクセーでお母さんに会って、次の日には帰って来るつもりでしたから、事務所にも職場にも何も言わず、とりあえず行く事にしました。

 

 未舗装道路をバスに揺られて6時間でパクセー到着。さらにトラックを改造したバスで約2時間。パクソンという町で出会うことが出来ました。

 

その夜、たどたどしい英語でお母さんとクリストファーの思い出を語るうちに、結局次の日一緒にクリストファーがいた村に行く事になりました。

 

 翌朝シダーの車でパクソンよりさらに70km奥地の村に向かいました。

 

 文字どおり道無き道を走り、途中車で川を渡ったりもしました。

 

 ようやくたどり着いた村は、ナムセーノイという人口105人の小さな村。もちろん、電気も水道もありません。クリストファーは、この村を拠点に、近くの村を巡回していたのだそうです。

 

 村の人たちの歓迎ぶりは大変なもので、クリストファーのお母さんは、それこそ本当に涙の乾く間も無い状態でした。

 

 その村では、少し嫌な話も聞きました。

 

日本の援助でダムを造ることが決まり、クリストファーが回っていた村は水没してしまうというのです。事前の調査や住民への説明はかなりおざなりだったようです。クリストファーはずいぶん日本のことを弁護してくれていたようですが、村人達は日本に対してあまり良い感情を持っていなかったのです。

 

その話を聞いて少し落ち込んでしまった私達に、お母さんはこう言ってくれました。

 

「クリストファーは手紙に、ラオスで本当に良い日本人の友人達とめぐり会ったと書いていました。もし、日本のことを悪く言う人がいたら、私はあなた達のことを話します。あなた達に会えて良かった。いつでもスウェーデンに来てください。私の家は、あなた達の家です」

 

2006-03-17

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